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仏壇に向かう心


 「僕は書かないで祈るなんて出来ないよ」と先生は仰る。

書かないで頭の中でイメージして祈る、ということには疑問があるのだという。先生は手帳さえも仏壇に置く。手帳に書かれているスケジュールが問題なく進む様にだ。

時折、先生は「病気の人のリストを持ってきなさい」と仰る。
側近の方が持ってくる大量の病気の方の学会員のリストで、20センチ以上はある紙の束である。『組織名 名前 すい臓がん』という感じである。それを仏壇に置いて一枚一枚に全部に題目を送る。こんな宗教団体の指導者が世界中にいるだろうか。

仏間の窓のサッシに少しでも埃がついていれば大変であるらしい。仏壇の端にミリ単位のキズでもあったなら、前回はなかったことを覚えていて、その期間に誰がこの仏壇に触り、掃除等で移動したりしたかの報告書をすぐに書かせる様である。
「きっと良い水になっているよ」と題目をあげたあとの仏壇の御水を飲んだりもする。

仏壇、おしきみ、お供物、仏間そのもの・・・一切が信仰に向き合う上で妥協を許さないのである。仏壇に余計なものを置いていないか、仏壇の引き出しの中に関係のないものを入れていないか、おしきみの葉っぱ一つ一つのどれかに埃が被っていないか、お供物は腐らせていないか、きちんと自ら食しているか、等々、僕も厳しく先輩から教えられた。


 『仏の名を唱へ経巻をよみ華をちらし香をひねるまでも皆我が一念に納めたる功徳善根なりと信心を取るべきなり』(一生成仏抄)

である。ご本尊に向き合う様々な些細な所が大事で、その“心”が全て功徳善根となるのである。
その御文を引用して、我が組織の教学部長は「本当に心がこもって真剣に真面目に“仏”に向き合っているならば、正しい念仏宗というのも無くはないんだよ」と言う。これは根本的に信仰者としての姿勢のあり方である。宗教の正邪ではない。


 会合や衛星中継で会館に行く。個人宅もあるだろう。当然、会場にはご本尊(仏壇)がある。
以前、衛星中継に帽子を被ってきて、そのまま終了まで帽子を取らなかった部員に対して怒った幹部がいた。当然である。夏場に裸足(靴下無し)で会館に来る者さえもいる。知らない組織のメンバーだと「あーあ、マイナス2ポイント!!」と勝手に後ろから心の中で呟く。(笑)

ある地区部長のお宅に行くと、常に必ずお供物としてポテトチップスの袋だけが一つど~んと置いてある。記憶の限りだと、塩味、コンソメ、のり塩・・・という風に時折味が変わっている(笑) ポテトチップスの油分も“一念”に納まってしまっているのだろうか・・・当然、かなりお太りの方である、のは言うまでもない。別にお供物は何でもいいから構わないんだけど。

そういえば、たまに会合なんかで参加者全員に先生からお菓子の激励を頂く。スナック菓子である。
僕は訊いてみる。
「そのお菓子どうしているの?」
ある人は言う。
「すぐに食べちゃうわよ」
人によっては会館の帰り道で歩きながらボリボリ食べていたり、帰ってきてどこかに置いておいて気付いたら食べている。
帰ってすぐに仏壇に置いて最低限題目三唱はしたいものである。僕はそんな些細な所で師弟としてのその人の姿勢が出るものだと思う。

今回の内容に近い記事を以前に書いたが、「形式にこだわり過ぎ」とか「化儀にこだわり過ぎ」という意見もあった。しかし、御書にもあるが『随縁不変・一念寂照』である。不変(原理原則)と随縁(応用)のバランスである。そして両方に対する真剣な姿勢が大事だ。そのバランスと深度が若干ずれてしまっていると感じるのは僕だけだろうか。

 ここまで書いてみて、ふと疑問に思う。
何故、会館にある仏壇には毎日お供物がお供えしていないのだろうか? お水もあったっけ? 衛生上、管理上、費用面で何か問題があるのだろうか?

今度訊いてみよう、っと。
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かいつぶり

Author:かいつぶり
職業 マスコミ

趣味 読書、楽器、小説を書く、料理、音楽

好きな食べ物・・・スイーツと酸味の少ないコーヒー、美味しいフランス料理と美味しいワイン。それさえあれば至福の時

好きな音楽 70年代のソウルミュージック。80年代前半の西海岸サウンド。あとジャズや、山下達郎周辺

好きな作家 ドストエフスキー、カポーティ、アーヴィング、ヴォネガット 

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