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”その後”の信心


 こういう観念論的に書くと怒られそうだが・・・僕自身の経験と、僕が見てきた数多くの部員さんの事で言うと、信心で何かを掴む(手に入れる)というのはそれ程難しい事ではなく、それを手放さず持続して自分の生命、生活、環境にしっかりと長い間染み込ませる事の方がよっぽど難しい、のではないか。

恋人が欲しい、就職したい、給料が上がりたい・・・車が欲しい、環境を変えたい、人間関係を改善したい、病気を克服したい云々、“こうしたい”、“こうなりたい”というのはきちんと理に叶った祈りをして、理に叶った行動をすればそれ程難しい事ではない。僕はそれを勝手に“瞬発的握力”と呼ぶ。空中に飛んでいるハエをパッと捕まえる様なものだ。

それに反して“持続的握力”とは、掴んだ物を離さない握力の事だ。就職したり、給料が上がっても会社が潰れる。または思う様に実証を示せない。病気が再発する。恋人に振られる。人間関係を克服してもまた悩む。環境を変えたつもりでもじわじわと後退している。別に信心をしていてもいなくても人生なんてそもそもそんなものだ。

つまり僕らは何かを獲得しても握った拳の指の隙間から少しずつ、まるで砂の様にサラサラと気付かない間に零れ落としてしまっているのだ。


信心における瞬発的握力は確かに確信を生むだろう。しかし、しばらくすると(時として)握っていた拳の中には何も無い事に気づく。やがて不信が生み、組織から離れる。何かを獲得した過去の事実(病気を治したり、就職したり、という確信)さえも過去に起きた幻想の様に感じる。そんな事もあったねぇ~、という風に。

むしろ大事なのは、“初め、ではなく、その後”なのだ。御書にもあるが、『月月日日につより給へ』であり、『今一重・強盛に御志あるべし』なのだ。
婦人部が強いのも家庭という枠組(家族の健康と和楽)をしっかり守っていく、という一念があるからだと思う。


 昔、イーブル・ニーブルという有名なアメリカ人のスタントマンがいた。いささかキチガイじみたチャレンジをして世間をあっと言わせて有名だったが、ある時、オートバイでグランドキャニオンを飛び越える、というチャレンジをしたのだ。
事前に用意した滑走路に全速で駆け上り、グランドキャニオンをぴょ~んと飛び越えちゃうのである。このチャレンジに成功した後の彼の言葉である。

『ジャンプすること自体は別に難しくはありません。難しい部分は、着地をしようとするところから始まります』

非常に哲学的な言葉だ。
大事なのはグランドキャニオンを飛び越えることではない。本当の事を言えば、飛び越える事がある程度出来るからチャレンジするのだろう。問題なのは着地なのだ。着地に失敗すれば大怪我をするか、あるいは死んでしまうだろう。
彼は跳ぶ前から“その後”のことを念頭に置いているのだ。無事に怪我なく成功して、これからも続く新たな“チャレンジ”のことを。

 僕らは何かを達成し、獲得する事だけを目的としていないだろうか? “その後”にそれらを生かして決して手放したりせず、持続して新たな目標の為に走り続ける事が出来るだろうか? パッチワークな信心をしていることもあるのだ。

(信心においても)“飛び越えた!!”と歓喜して、着地に失敗して大怪我をし、二度とチャレンジをする意欲を失ってしまった人がどれだけ多い事か。
ジャンプして奈落の底に落ちることはない。どんなに突拍子もない祈りをしても、祈りが定まった時点で飛び越えることが出来るのは決まっているのだ。あるいは、絶対叶わない祈りなんてない、と同時に、叶わない祈りなんて人間はそもそもしていないのだから。(なんか聖書みたいだな)

 大切なのは、叶った後である。
火の信心と水の信心・・・と言えるが、時として、火の信心によって淀み浅くなってしまったバクテリアだらけの濁った川の水を煮沸消毒するのもいいかもしれないね。但し、水が蒸発して干上がらない程度にね。
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かいつぶり

Author:かいつぶり
職業 マスコミ

趣味 読書、楽器、小説を書く、料理、音楽

好きな食べ物・・・スイーツと酸味の少ないコーヒー、美味しいフランス料理と美味しいワイン。それさえあれば至福の時

好きな音楽 70年代のソウルミュージック。80年代前半の西海岸サウンド。あとジャズや、山下達郎周辺

好きな作家 ドストエフスキー、カポーティ、アーヴィング、ヴォネガット 

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