それでも生きていく為に・・・

音楽、料理、小説、時々、創価学会

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

題目の声とマナー



 何人かで一緒に題目をあげていると、時折他人の題目が気になることがある。まあ、人それぞれみたいな部分もあるし、他人の題目にいちいち気になっていてもしょうがない。

仏壇を見ればその人の信心が分かるのは当然だが、題目でもなんとなく察することだ出来る。唖然とするのはご本尊を見ていない人、意味も無く目を瞑っている人もいる。手の位置(基本は指先は下唇とあごの中間あたり)、姿勢、そういうのは千差万別である。


 ここ数年、やけに気になるのが、題目三唱の時や普通の題目の時にやけに“妙”に力が入る人、“妙”の声だけが大きい人、アクセントが他と比べて強い人、“妙”の部分が長い人である。
(題目三唱の時ではなく)“妙”と“法”の発音時間が6:4位の人がいる。とにかく“妙”が強調される題目はクセのある題目である

他人の題目にいちいち指摘するのはどうかと思うが、酷い場合にはきちんと言う。また、普段、題目をあげてない証拠は“足の痺れ”ではない。長い時間の唱題会の途中に足をモジモジさせるのは一概に普段題目をあげていない、とは言えない。体格もあるし、家で座椅子を使っている人もいるだろう。
問題は声の“高低”だ。10分位のサイクルで息継ぎと同時に声の質(高低)がクルクル変わる人がいる。こういう人は題目に自分の声が慣れていないのだ。家でしっかり題目をあげている人は、長い時間題目をあげる時の一番しっくりくる声をきちんと身に付けている。先生の指導にも“生活に顕れるよ”との指摘がある。実際にそういう人を見てみるとまさしくそうである。


 あと、なんと言っても題目中に携帯をいじる人やメールを打つ人である。偉い幹部や忙しい幹部はまめに連絡が入るのはしょうがないが、題目中に携帯を触る人はどうかと思う。であるなら、中座してからメールなり電話をするべきである。特に導師でそれをやるというのは参加者に失礼である。長時間の唱題会ならまだしも普通の会合の冒頭の勤行→題目はせいぜい10分位だろう。その時間さえも待てないのだろうか。

あとは、導師も含めて電話に出ちゃう人もいる。更に普通の声の大きさで会話しちゃう人がいる。僕は必ず“部屋を出て話しなさい(してください)”と目で合図する。
あと面白いのが、どうしても電話に出なくてはならない場合に誰かが小声で会話し始めると、普通は周りは一斉に題目の音量を下げる。実は、こういうマナーみたいなものって昔の人は知っていたけど、最近の若い男子部は知らない。そんなの構わずに周りはガンガンに題目をあげている。まあ、電話に出るのもどうかと思うが、会話し易い様に周りが声を小さくしてあげる気遣いみたいのが昨今無くなったなぁ~(笑)


 先ほど書いた、他人の“妙”が強い(長い)クセのある題目が気になる、ということについて言えば、そう感じていた矢先に幹部からこんな話を聞いた。
最近、先生はその“妙”が強い、長い、大きい題目をあげる女子部幹部をかなり厳しくメチャクチャ叱責したらしいのだ。彼女(達?)は早速、自分の題目を録音してチェックしたということである。 


 今一度、僕らも自分の題目を録音して総点検するべきだろう。まあ、一念(心)が大事なのは言うまでもないけどね。
スポンサーサイト

慢心ではない



 最近ドタバタで更新が滞りがちだが、それは

 実は、今回の人事で違う部の派遣の部長になった。部長として3部目、派遣では2部目である。
三年間やった派遣の前部は部長として大勝利する事が出来た。前部は自分も含めて続けて派遣で部長を貰っていたが、「次の部長(後任)は組織内から出す」(副部長が部長になった)という就任当時の決意の一つも達成出来たし、三年前に全5地区で地区リーダーが一人しかいない組織から4人の地区リーダーを立たせる事が出来たし、残る1地区のリーダー候補も次の人事ですぐに登用されるであろう。
更に、何よりも前部長としての本当に“最後の日”(新しい組織の部長任命の前日)に部の大学校生が折伏を決めた。新しい部の人事の話を貰った約2ヶ月前からの『部長として、先生の弟子として歴史を作る。残り僅かな期間を最高の形をもって闘い切る』という祈りも叶ってしまった。三年間、様々な事があったが今振り返ってみると自身としては完勝である。後悔はない。最高の形で新しい部長にバトンタッチをする事が出来た。

部長交代の挨拶の際に部員さんや壮婦や幹部に僕は胸を張ってよくこう言った。
「僕は勝ちましたよ。部長として完璧に勝ちました。組織をここまで発展させましたよ」と。

 さて、敢えてここまで書いたのには理由が。

 アンチにしろ一部の内部にしろ先生の名誉教授称号や学術称号などの様々な顕彰に対して批判的かつ違和感を覚える人が多い。連日ともいえる聖教新聞一面トップの扱いに『宗教家がそういう類のものを自慢気に語るのはいかがなものか?』と。
しかしこれは仏法をまだまだ理解していないのである。『然れば久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と我等衆生との三つ全く差別なしと解かりて妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり、此の事但日蓮が弟子檀那等の肝要なり法華経を持つとは是なり』(1337頁)

つまり自分とご本尊と大聖人は全く差の無い偉大な仏である、という意味である。自身もまた宇宙規模の偉大な人間であり、仏性を信じて祈り、行動し、“仕事”をしていけば何事も成し遂げられるという意味だ。つまり先生はその思想と行動による結果として世界が賛嘆するのは当たり前なのである。当たり前だから“嬉しいから報告しちゃいます。凄いでしょう?”となる。これは『法華の慢』といって正しい慢心なのである。そういう慢心はドンドンしていかなきゃいけない。『喜び身に余るが故に堪(た)え難くして自讃するなり』(334頁である。


 日本という国の文化(学会組織にあっても)はそういうのを嫌う。相手と合わせ、謙虚で、卑下し、どこか自分を殺して何かの犠牲になっている精神が“善”とか“美徳”とされる。だから組織で結果を出しても“いやいや、たまたまです”とか“皆さんのお題目のおかげで・・・”とかいう態度が好まれる。逆に「はい、祈り、行動し、自分を信じて頑張ったのでこういう結果を出せました。当然だと思います」と言ったら場合によっては“慢心だ”と非難される。
慢心とは誰かと比べて自分を優れた存在だと思うか、誰かと比べて自分を卑下するか、つまり自分と誰かを比べることが本来の意味である訳だから、『あなたの信心は慢心だ』という批判の中には仏法上関係のない社会通念的な意味での嫌悪感が多分に含めれていることが多い。

では、先生は自分だけが特別な存在だからここまで世界から賛嘆されると言った事があるだろうか? 戸田先生や牧口先生と比べて自分は優れているという発言があっただろうか? 会員に対して『僕は出来たけど、君達は到底出来ないだろうな』と言った事があるだろうか?
先生は「僕はこういう闘いと結果を出してきたんだけど、君達だって同じ様に出来るんだよ。」と激励してくれているのである。先生のよく言う「学会をここまで発展させたよ」という趣旨の発言は“法華の慢”であり、正しい行者としての証なのである。

自分は妙法蓮華経の当体であるし、無条件で学会員全員が仏なのである。よって自分の仏性を過小評価すると同時に、役職が下であろうと様々理解し難い部員さんであろうと、相手の仏性を否定するのもまた、前者はご本尊不信であり後者は同志誹謗(軽善)という謗法であるのである。

記事の途中で書いた『僕は勝ちましたよ。部長として完璧に勝ちました。組織をここまで発展させましたよ』も、僕だから出来たのではない。僕ではない部長だったらここまで前進出来なかったという想いは一切ない。だから新しい部長に続けて言う。
「・・・〇〇君(新任部長)も同様に発展・前進出来る筈ですから頑張ってください」と。


 どんな悩みがあろうとも、苦境にあろうとも、現状を周りから蔑まれ様ともそれでも“自分は仏である”とご本尊の前で自身満々に勝つと誓願出来るだろうか。「仏である自分がこんな筈がある訳がない」と確信出来るか。最悪な自分をとりあえず置いておいてご本尊が自分の分からない所で“グルグルグル!!ド~ン”と魔法みたいなものをかけて状況を改善させてくれる様な事を願う“己心の外”に求める信心ではなく、自分から数10センチ離れた所にある仏壇の中のご本尊を“胸中の肉団”として捉えられるかどうか。

 ご本尊の前でどの様な心(一念)でいられるか。その微妙な差でその後の行動、結果が全て決まってくるのであると思う。

Top

HOME

かいつぶり

Author:かいつぶり
職業 マスコミ

趣味 読書、楽器、小説を書く、料理、音楽

好きな食べ物・・・スイーツと酸味の少ないコーヒー、美味しいフランス料理と美味しいワイン。それさえあれば至福の時

好きな音楽 70年代のソウルミュージック。80年代前半の西海岸サウンド。あとジャズや、山下達郎周辺

好きな作家 ドストエフスキー、カポーティ、アーヴィング、ヴォネガット 

この人とブロともになる

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。