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創価大学卒と、本部職員



(最近は、このブログでは珍しい更新ラッシュですなぁ。まあ、またしばらく放置かな。)


 以前の幾つかのコメントに、学会に対する疑問を挙げた際に自称“創大卒業生”という方がいたり、地方の本部職員の態度、姿勢、振る舞いに苦言を呈するものがあった。

 創価大学を卒業したことが信心や弟子という観点で何か“権威”を与えるものでは一切ないし、信心が立派であるという考え方も無い。コメントした人にとっては、自分が“創大卒業生”であるにも関わらずこんな疑問を持っているんですよ、と説得力を持たせたいのだろう。

入信した頃の職人肌の叩き上げの部長は「創大卒や創大の学生部から上がってきた男子部こそ気をつけろ」と言っていた。いささかひねくれてはいるが言いたい事は分からないでもない。「創大卒? それがどうした」である。
卒業生特有の「僕は創大卒です」という妙な自負と、その時点で信心が数段階クリアされているという勘違いがあるからだ。といっても近年はそういう人はあまりいない。問題なのは「へぇ、(あなた、彼、彼女は)創大卒なんだぁ」という周りの声である。創大は信心と弟子の養成機関ではない。教育機関としてはいたって優れた素晴らしい大学であることは間違いないし、フォローで書く訳じゃないけど、壮年部になったら創大の通信教育には行きたいと思っている。
男子部というのは、どこの大学出身なんか馬鹿臭くて気になんかしていない。信心において創大卒というのは、地球温暖化と僕のパソコンが最近調子悪い事位に因果関係は全く無いのだ(笑)


 さて、本部職員といっても様々である。地方の本部職員もいるし、信濃町近辺勤務の職員もいる。僕が接している本部職員は皆凄いと思う。脱帽である。尊敬している。
以前の財務の記事で、財務がどう使われ様とこちらがあれこれ詮索するのは傲慢である、という趣旨で、「本部職員の給料が風俗に使われたっていいじゃないか」と極論で書いたらそこそこ批判のコメントが来たが、僕が接している職員は給料をそもそもそんな事に使うなんて考えてないだろう、という意味である。

知っている職員は個人折伏もバンバンしているし、公私なく会員に尽くしてる。偉ぶったり傲慢さも無いし、どこか“すみません、本部職員させて頂いてます”という謙虚さがある。
むしろ可哀相になって“もっと遊べば”とこちらが言いたい所である。先生の側近の職員の激務ぶりは凄まじいし、信濃町界隈に(寮などに)住む職員は夜中にふらりと近所のコンビに行くだけでもスーツに着替えなくてはならない。分かりやすく言うと、誰もが先生より早くに仕事を始め、先生よりも遅くに仕事を終えている。

但し、職員故の悩みもあるだろう。外部に友人が少ない、とか、一般社会とは少しずれた感覚を持っている、とか。まあ、仕事柄しょうがないじゃないだろうか。
ある尊敬する職員は本部において仕事で要職についているが、自身の人材グループ(創価班や牙城会)の着任が職員としての仕事で厳しくなりそうだったので(先生との約束である着任を勝ち取る為に)辞表を提出して本部職員を辞める寸前までいった。ここまで覚悟を持って闘っているのだ。


先に書いた創大卒の考察と関係しているが、衛星中継で先生の後ろにいつもいる方々の中からは「創大の新卒の本部職員採用はやめた方がいいのではないか」という声が具体的に出てきているらしい。僕がこうして書いてきたことはあながち的外れではないのかもしれない。


 地方の本部職員のことは分からないが、単純にもしかしたら信濃町からの距離に反比例した何かがあるのかもしれない。
信心の姿勢や闘いの中身を見ずに、創大卒や本部職員という経歴と肩書きだけに無条件でふれ伏してしまう会員側にも責任はあるだろう。
仮に僕がそう言う所に引越しして傲慢な本部職員がいたら、相手が男子部であろうと壮年であろうと婦人部であろうと直接バンバン言うだろうし、中央の幹部に電話してチクっちゃうだろうな(笑) まあすぐに組織から干されるだろうけどさ。あはは。


 本部職員と一般会員の関係は公務員と国民の関係と同じだと思ったら大間違いである。
「私達の財務で食べているのに・・・」と思うのは自由であるが、仕事として割り切らなくては普通は出来ないだろうし、ボーナスは無条件で財務だし、海外旅行は新婚旅行以外行けないし、職員というだけで一般会員から常に信心をチェック(監視)されている立場も辛いと思うよ、ホント。色々言うなら一度やってみたらいい。僕には絶対出来ないね。
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まずは環境を変える。


 前回の記事とそのコメント欄とリンクしている話である。

 数年前のことである。ある本部職員のB君が昼休みにテレビを見ていた。ある皇室の女性が長い間病気で、地方の○○にある保養所(静養所?)に行って病気を治す、というものだった。本来いるべきの東京の中心にある○○ではままならないので、その保養所に行って環境を変えて治療を開始した、というニュースだった。
B君はテレビを見ながらブチブチと文句を一人で言う。

環境を変えればいいってものじゃないんじゃない? 税金の無駄使いだよ、全く!」

それを後ろで見ていた(当時の)副会長がB君の頭をポカッと叩いて怒って言う。
「君は仏法を何も分かってないな」

仏法の言葉で「依正不二」と言う言葉がある。「正」とは生命それ自体。つまり自分自身であり、心である。「依」とは自分を取り巻く自然世界や環境。「依」と「正」は別々のように見えて実際は「不二」、切り離すことのできない存在であるということである。

しかし、『正法(心)・即・依法(環境)』ではないのだ。

『今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉る者の住処は山谷曠野皆寂光土なり』 (御義口伝)という御文がある。

この御文が時折、「今いる場所で勝て!」と解釈される。あるいは、仕事でも家庭でも組織でも辛く大変な状況でも辛抱して耐えろ! という趣旨に恣意的に利用されてしまう。間違いである。


B君はニュースを見て、皇室のその女性が病気を治すために、治すという心の一念から逃げて環境を変えて治そうとした、と解釈して怒る。しかし副会長は言う。
「まずはとりあえず環境を変えてみるのも大事なんだよ」

 例えば、男子部だったら仕事が酷く辛い、人間関係に苦しんでいる。そういう時に「これは君が成長するために必要な環境なんだよ。 “今いる場所で勝とう”」と指導をする。あるいは、「今の環境は全部自分が作り出したものなんだよ」と諌めて終わりではいけない。
それが最終的には、安に転職してはならない、という形骸化された指導になる。何がなんでも今いる場所にしがみついていけ!と、大聖人はそんな鬼の様な厳しい方ではない。

離婚した方が幸せになる人もいる。会社を辞めた(転職した)方が幸せになる人もいる。
『南無妙法蓮華経と唱へ奉る者の住処は山谷曠野皆寂光土なり』とは、題目を上げて自分で決めた想い(決断)と環境を変えてみた自分をトータルとして「依正不二」の「正」なのだ。それが離婚や転職や引越しという決断と行動(環境の変化)であってもだ。

「心が変われば環境も変わる」と「環境が変われば心も変わる」・・・だいたい重要度は7:3位ですかね? とB君は最近言う。
間違えてはいけないのは、逃げの心ではダメだし、題目無しの短絡的な環境の変化では絶対にいけない。題目を上げ、自身の成長と幸福の為にまずは環境を変えるのが大事だと思ったら環境を変えてみなければいけない。それ(環境)によって自身(心)が変わった例は幾らでもあるし、誰も否定しないだろう。

 
「ただですね・・・」とB君は言う。
環境をまずは変えてみよう・・そういう指導を新聞なり何かで活字にするには非常に危険が伴う訳です。個々に拡大解釈されて、あちこちで会社をすぐに辞めてしまったり、こんな生活嫌だと離婚したり、こんな組織は嫌だ、と引越されたら問題ですから・・・その指導通りにやって後でおかしくなって『どうしてくれるんだ』と文句があって組織が責任を取らなくてはならない問題になりかねませんので」

「依正不二」は単に「正」→「依」ではなく、「不二」なので相互に作用しているのである。


 前記事の中で幹部のA君が会合の大幅の削減を英断した。
まずは(活動のあり方と会合の削減という)「依」、つまり環境を先に変えてみる、という所から会員の「正」(心)を変えよう、という方法を取ったのも間違いではない。

組織や幹部や闘い方に疑問を持った場合に、それも全て信心で捉えて耐え忍んでいくよりも、環境を変えようと題目を唱えた上で会員が幹部なり組織に対してしっかりとした改善策を訴えていくのは実は大切なのである。

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かいつぶり

Author:かいつぶり
職業 マスコミ

趣味 読書、楽器、小説を書く、料理、音楽

好きな食べ物・・・スイーツと酸味の少ないコーヒー、美味しいフランス料理と美味しいワイン。それさえあれば至福の時

好きな音楽 70年代のソウルミュージック。80年代前半の西海岸サウンド。あとジャズや、山下達郎周辺

好きな作家 ドストエフスキー、カポーティ、アーヴィング、ヴォネガット 

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