それでも生きていく為に・・・

音楽、料理、小説、時々、創価学会

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仏壇と入信記念日

 ふと思い出したが、一昨日は入信記念日である。11月17日・・・翌日の11月18日が創立記念日なのでどうしても18日と勘違いしてしまう。確か平成8年の11月17日は日曜で入会記念勤行会があったからである。

 一昨日で丁度入信12年になった。早いものである。

 実は2年前(入信10年目の時)にちょっとした体験があった。部長になって一年経った頃で、部は折伏の結果もまだ出ていなかった時だった。折伏戦バリバリだったから結構詰められ、色んな幹部が僕の部の担当に入っていた。
10月の人材グループの面接の際に幹部から部の状況を聞かれ、「いや、まだ結果が出てません」と答えると、「生まれ変わった気持ちでやらないとヤバイよ」と言われた。何故か腹立って“コノヤロー、やってやるよ”と火がつき、毎日一時間題目を欠かさず始め、バリバリ対話に行き、部員周りも毎日の様に狂った様にやった。題目を上げて動くと全てが良い方向に回転し始め、ある日などは、めったに会えない部員さんを5名程周り、不在だったが、終わって拠点の前で幹部と1時間程立ち話をしている間にその場所を偶然にもその5名全員が順番に通り、じっくり対話出来た、ということもあった。

また、(当時の)副部長のA君が急に発心し、明日一人で対話に行ってきます! と言ったので、翌日の会館で、A君が対話している時間帯に皆で題目を上げていたが、僕は途中で鈴を鳴らして勝手に終了させた。
僕は後ろの皆に言った。「決まりましたよ、A君」
「えっ? 何? (メールで)連絡入ったの?」
「いえ、何も。でも・・・もう決まりましたので大丈夫です」
皆、訳の分からない顔をしていたが、僕にははっきりと折伏が決まったことは分かっていた。案の定しばらくしてA君から連絡が入り「決まりました!」と嬉しい報告をしてくれた。実は、相手の方が「やるよ」と首を縦に振ったのが丁度僕が鈴を鳴らした時間だった。折伏戦の最後の締め日にご本尊送りをした。

そんな一ヶ月の闘いを経た本部幹部会の衛星中継では、アメリカSGIの芸術部のメンバーが来日し、先生の為に日本語で合唱を行った。それを見てボロボロと号泣してしまった。


 翌月の(つまり今から二年前の)11月18日に特装ご本尊をいただける、という話になった。特装ご本尊とは、布地で普通のご本尊よりも大きい。
実は家の仏壇は死んだ母親が残したもので、平成8年の11月17日に入会するまでの20年間、日達時代のご本尊を御安置していた。入会時に日寛上人のご本尊に取り替えたのだが、日寛上人のご本尊は大きく、中扉が閉まらなかった。よって新しく頂く予定の特装ご本尊は更に大きいので、完璧に仏壇を買い替えなくてはならない。しかし、母親の形見のその仏壇を捨てるのは寂しく、どうしようか悩んでいた。“まあ、ご本尊の功力は一緒だから、特装ご本尊を頂くの辞退しようかな”と思っていた。また、どうせ仏壇を買い替えるならちゃんと高い物にしようと考えていたが、その時はあまり金銭的余裕もなかった。

二日前の11月16日に拠点で地区婦人部長とそんな内容の立ち話をしていた。
「・・・という訳で・・・明後日、特装ご本尊を頂くの辞めようと思っているんです」と。
少し離れた所で誰かと話していた隣の地区部長がその会話を聞いていたのか、僕の所にスタスタやって来てこう言った。
「今日の昼間に○○町のリサイクルショップにふらりと行ったら、学会の仏壇あったよ」
「えっ? マジっすか?」
「明日、、もう一度見てきてあげるよ」
でも、僕はそれほど本気にはしていなかったし、所詮は立ち話で軽いノリの会話と思っていた。特装ご本尊は半ば諦めていた。

翌日の11月17日、つまり丁度入信10年目である。会社から帰るとその地区部長から電話があった。
「○○君(僕)、今、もう自宅にいる?」
「はい」
「あのさぁ、昨日言ってた仏壇だけど・・・今日もう一度行ってきたらまだ店にあったから・・・車で行って買ってきちゃったよ」
「えっ? ホントですか?」と正直引いてしまった。
「そう、もう買って車に積んで○○君(僕)の家の前にいるよ」
「ええええええええっ!!!」
感謝である。本当にありがたかった。仏壇を見てみると、とても大きくて立派で全自動である。
「幾らでした? 金額」
「えーっと・・・4900円ね」
よんせんきゅうひゃくえん!!!」と僕は驚いてしまった。
全く傷のない新品同然で、普通に買ったら30万円はする代物である。それで前日に急遽、特装ご本尊を頂けることになった

入信丁度10年の11月17日に古いご本尊を取り外し、翌日の18日の創立記念日に新しい特装ご本尊を新しい仏壇に御安置した、というのは何か意味があるのだろう。感慨深かった。

題目を上げ、行動し、勇気を持って語り、先生と呼吸を合わせると本当に思ってもみない功徳があるのだと感じた。

という訳で、思い出したので今日は書いてみました。
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恋愛と信仰①

(胸を張って言える体験ではないかもしれないが、ささやかな体験である。最後まで読んで頂ければ分かるが、こういうことは本来書くべきじゃないかもしれないね。)


 少しだけ時間が経ってしまったが、先月に鎌倉にふらりと遊びに行ってきた。

ふと心に穴が空いてしまった時には何故か思い立った様に鎌倉に向かう。疲れた時、どこか物悲しい時、心の底に溜まった“澱”みたいなものを洗い流す時にだ。僕のささやかな人生の中ではいつからかシンボリックな場所となっていたのだ。お寺に興味があるのではない。歴史の流れを感じ、山々の自然に囲まれ、そして何より海があるからだ。大好きな場所だ。

高校生の時からガールフレンドともよく鎌倉に遊びに行った。
15歳の時の僕が由比ガ浜でガールフレンドと手を繋いでいる。17歳の僕がガールフレンドと北鎌倉の駅で踏み切りを待っている。20歳の僕は鎌倉の大仏を前に照れくさそうにガールフレンドの放ったシャッターにはにかんでいる。23歳の僕は源氏山の上で街並みを見下ろしながらガールフレンドととても味の薄い彼女の作ったお弁当を食べている・・・・・・しかし、数限りなく鎌倉を訪れた無数の記憶の光彩は次第に弱まり、僕の中から零れ落ちる様に消え去っていった。思う出そうとしても思い出せることは限られてくるものだ。それが歳を取るという事なのだろう。


 27歳の時にその当時のガールフレンドと記念に鎌倉に行った。どこを巡ったかは覚えていないが、僕らはとても静かだった。会話は途切れ途切れだった。まるで壊れた無線で話しているみたいだった。そして、日が暮れた北鎌倉の閑散とした帰りのプラットホームで僕らは言葉に出さずに別れることを決めた。僕らはお互いに最初から記念の為に鎌倉に行こうと考えていたのだ。そう、最後の記念として。最後の。彼女との最初のデートも鎌倉だった。

それから付き合うガールフレンドとは鎌倉には行くことはなかった。それが僕にとって正しいことなのだといつからか思う様になった。あるいは一つの生き方の変更を余儀なくされたのだと思う。

最後の記念に鎌倉に行ったそのガールフレンドとは24歳の時に高校の同窓会で卒業ぶりに再会してすぐに付き合った。
当時の仕事の定時が夜中の12時終了だったので悩み、時間革命をしたいと祈っていた。学会活動したいからだ。同時に前の彼女と別れて数ヶ月経っていたので彼女が欲しいとも祈っていた。それで父親を折伏して入会させた翌日に出社すると、社長から電話があり「明日からは会社の定時を夜9時までとする」と言われた。会社が出来て10年以上続いた会社の慣習が一夜にして変わったのだ。更にその翌日には同窓会があったが、夜中12までの仕事だから「行けない」と事前に断っていた。しかし終業時間が変わったせいで同窓会も2次会から参加出来たのだ。高校時代に一言もしゃべらなかったその子と何故か意気投合し、一週間後に付き合い始めた。父親を折伏した後一週間程で「時間革命」と「彼女が欲しい」は叶ってしまった。

実は、その彼女(Aさん)のことを何年も密かに好きだったB君がいた。B君とは僕も仲がよかったが、B君が彼女を好きだなんて当時は考えもつかなかった。しかし思い起こせば、B君に「彼女だよ」と言って紹介したAさんを見つめる彼の表情は忘れられない。しばらくして僕はB君を折伏した。僕は自慢気に体験を語った。時間革命と彼女が出来た功徳のことを。彼が彼女を好きだったことなんて一切知らずに。

それから数年して27歳の時の最後の記念の鎌倉で僕らは別れ、しばらくしてから彼女はB君と付き合い始めた。当然、僕に内緒で。彼は虎視眈々と狙っていたのだ。

ある時電話が彼からあった。「ちょっと話があるんだ」
飲み屋で様々な世間話に花を咲かせた後に彼は最後にこう言った。
「実は、初めて言うんだけど、○○(僕のこと)とAが別れてしばらくしてからAと付き合い始めたんだ。でさ・・・・・・結婚が決まったんだ」
僕は驚き、「おめでとう」と一拍置いてからなんとか喜んで言った。
最後の最後に彼は突然一言だけこう僕に言い放った。会話とは何も脈絡もなかった。

「そうそう、明日、Aと鎌倉行くんだよね」

僕が入会させても実家の都合でご本尊をお巻きした状態だった彼をなんとかしようとそれまで努力していた。しかし、逆に彼は心底僕を恨んでいたのだ。長い間好きだった女性が、6年ぶりに再会した友人である僕と突然付き合い始めたことに。そしてそれを自慢気に信心に絡めて語る僕のことを。だから彼は決定的な一撃を持ってそれまでの恨みと憎しみを爆発させる様に僕を完膚なきまでに打ちのめしたかったのだ。積年の想いを晴らす為に。

「そうそう、明日、Aと鎌倉行くんだよね」という一言をもって。

彼女から僕とのことを聞いていたんだと思う。僕と彼女がよく鎌倉に行ったことを。だから彼は、彼女の記憶の中の僕との鎌倉を自分との鎌倉に塗り替えたかったのだ。彼はこう思っていたのだろう。

”結局は俺はオマエに勝ったんだ。Aを俺は最後に獲得したんだ”と

彼女が彼と結婚することは当然嬉しいことだった。しかし、僕は彼のその一言によって決定的に何かを損なってしまった。それは人間の怖さであり、言葉の怖さと恐ろしさだった。人間の放つ言葉が誰かを殺すことを知った。あの時以来僕の中の何かが死んでしまったのだ。深く傷つき、深い深い井戸の中に突き落とされたみたいだった。大きく自分が変貌してしまったと感じる。

②へ続く。

恋愛と信仰②

①からの続き。

 彼女は大の学会嫌いだった。僕との別れの原因の一つであるかもしれない。そして次に付き合うことになる男を僕は学会員にさせてしまった。不思議なものである。
結婚の報告の後、彼は僕に相談してきた。
「ご本尊は返すのが怖いかもしれない。辞める気はない。しかしA(彼女)が学会嫌いだから・・・結婚・・・どうしよう」

僕はただ一つのみを考えることにした。彼がきちんとご本尊を御安置出来ることを。それが彼らの結婚にどう影響するかなんて当時の僕にはどうでもよかった。全国幹部の自宅まで彼と一緒に指導を受けに行ったりもした。幹部は、ご本尊をお巻きしていることと返却させることの怖さを語ってくれた。

しばらくして彼は電話でこう言った。そんなことを平気で言う彼の言葉を聞いて僕はため息をつき、しばらく静観することにしした。祈ることのみだけにしたのだ。

「ご本尊は御安置出来ないし、それを持って結婚は出来ないかもしれない。でも学会を辞める気はない。怖いからだ。だから上手くその辺りを誤魔化して折り合いをつけて両立出来ないものかな?」

実は僕と、僕を折伏したC君とB君の3人は同級生である。だからその辺りのことはC君も知っていた。いつになっても結婚式の日取りなどの具体的な話が風の噂で聞こえてこない状況の中で僕はC君に言った。僕の勝手なひらめきだった。
僕は断言してこう言った。「アイツ(B)は・・・結婚しないよ」
「えつ? 何? 婚約破棄になったの?」と彼は訊いた。
「いや、違う。そんな話は聞いていないよ。でもさ・・・なんとく分かるんだ。ご本尊を御安置もせず、でも学会も辞めずに上手く誤魔化して結婚しようとしている人間が幸せになれる訳ないじゃないか」

その通り、彼はしばらくして体調を崩して入院し、仕事上のパートナーに裏切られ、逃げられたのだ。結婚も・・・・しなかった。

その当時殆ど未活動家だった僕は少しして副部長になって組織に戻り、数年間の未活動家時代を埋める様に狂った様に学会活動し、彼のあの一言で空いた心の穴を埋める様に一心不乱に闘った。


 そして、とうとう先月のことである。8年ぶりに僕はA(彼女)に勇気を持って電話をした。(選挙において)重点区に住むAにF取り行こうと決めたからだ。声を聞くのはあの最後の鎌倉以来である。電話にすぐに彼女は出てくれ、とても元気だった。「これから行くよ」
部員さんと一緒に車で彼女の家の近くに行き、久しぶりに再会した。何も変わっていなかった。変わったのは年月だけだった。そう、僕らはもう35歳になっていたのだ。


 そして二週間後に僕らは二人で飲みに行った。8年間、お互いに何があったかを時間を惜しむ様に語り合った。同時に、学会が原因でなく根本的な問題でBとの結婚が消滅してたことも知った。彼は「学会を辞めた」と当時彼女に嘘をついたらしいことも分かった。

鎌倉に行こう! 

最後に僕らは自然とそんな話になっていた。どちらから切り出したかは覚えていない。

『少しだけ時間が経ってしまったが、先月に鎌倉にふらりと遊びに行ってきた』と僕は冒頭に書いた。そう、彼女と一緒にである。
昔のデートコースと一緒だった。8年ぶりに彼女と行く鎌倉は殆ど変わっていない様な気がした。寺に入ることはなかったが、日蓮大聖人ゆかりのお寺の近くでは大聖人の生涯を語ったりもし、彼女は真剣に聞いてくれていた。由比ガ浜に出て夕暮れの海を眺め、江ノ電に乗って稲村ガ崎にある海の見えるレストランでゆっくりと食事をした。何かの話の折に彼女はこう言った。

「これは本当に本当にホントだからね・・・・・・○○君(僕)は・・・今まで付き合った人の中で一番楽しくて・・・一番充実していた時間だったの」

8年間僕の心の底辺でくすぶっていものが一瞬にして流れて行った。選挙で勇気を持って電話をしたことがきっかけで何かが動き始めたのだ。断言する。僕はもうBを恨んでいない。しかし、こうして彼女と再び鎌倉を訪れるという行為そのものが彼に対する僕なりの答えであり、僕の僕自身に対する答えなのだ。僕にとってはそれをすることが必要だったのだ。いや、しなければ解決出来なかったのかもしれない。


彼女を自宅まで送り、別れ際に気付くと僕らは静かに抱き合っていた。お互いの懐かしい温もりと感触と香りを感じとった。でも僕らにははっきりと分かっていた。もう何も始まらないことを・・・もう何も起きないことを・・・そして・・・その日を最後にもう二度と二人で鎌倉に行く事がないことさえも。
そう、お互いの人生はお互いが思っている以上に前へ前へ進にんでいるのだ。8年という長い歳月は二人をあまりに遥か遠くに運び去ってしまっていた。

まるで二度と交わることのない二つの線路の様に。

フランスでテロ①

 以前の記事『選挙の功徳』で、飲酒運転で100キロで停車中の車に追突し、シートベルト無しで無傷でその場から逃げ、更に電柱を傾かせ、スナックに突入して半壊させ、結果誰一人怪我一つ無く、アルコール反応も無く免許に傷がつかなかった話を書いた。
それ以降、あらゆる面で人生がうまくいかなかったのだが、本当に福運を使い果たしたな、燃料切れになったな、と思った。

実は事故の一ヶ月前に物凄い粗相を犯している。ここまでいくと笑い話で、現在では実際に笑い話であるが、この件と車の事故で福運を使い果たしたと思っている。信心とは密接に関係ないかもしれないけど、結構面白い話である。馬鹿な男のまぬけな話である。

        * * * * * * * * *


 その時、僕は仕事でフランスのパリにいた。会社の社長と先輩の5名程でしばらく滞在した。目的は買い付けである。1000万円の現金を成田でフランのTC(トラベラーズチェック)に変え、分担して持ってフランスに入国し、時にはある店に陳列してあるものを「これ、全部ください」と言って買ったりもした。

事件は仕事が終わって帰る際のド・ゴール空港で起きた。僕らは出国手続の為にカウンターに並んでいた。日本の航空会社で多くの日本人観光客がいた。
会社の先輩が「俺がまとめて手続きしてくるよ」と言ってくれたのでチケットを渡し、受付を済ませ、中に入り、あとは出発を待つだけである。お茶を飲んだり、免税店を周ったり、煙草を吸ったりして時間を潰した。

時折こんなアナウンスが日本語と英語とフランス語で流れる。

『カウンター前に黒いスーツケースをお忘れの方、至急、係員まで申し出てください』  確かこんなアナウンスだった様な気がする。

僕は最初全然気にしていなかった。僕のスーツケースは青いのだ。

『カウンター前に黒いスーツケースをお忘れの方、至急、係員まで申し出てください』

アナウンスが頻繁にされる。僕は相変わらず聞き流していた。

『カウンター前に黒いスーツケースをお忘れの方、至急、係員まで申し出てください』

アナウンスの語尾に力が入る。2分おき位にしつこい程に繰り返される。

先輩の一人が首を傾げて言う。「オマエのスーツケースって・・・何色だっけ?」
「青ですよ」
「そうか」

『カウンター前に黒いスーツケースをお忘れの方、至急、係員まで申し出てください』


先輩が再び訊く。「なあ、オマエ、荷物チェックの際に、自分でコンベアに自分の荷物乗せたか?」
「・・・へっ?」と僕は驚き、しばらく考えて答える。「そういえば・・・乗せてないですね」
「・・・・・・」
オ、オマエだよ!!!

彼は歩いている日本人の女性スタッフを呼び止めて「コ、コイツです。荷物置き忘れたの」と言う。彼女はすぐに無線を取り出し、誰かに向かって「該当者と思われる人が見つかりました!」と緊迫した声で言った。「すぐに一緒に来てください!」

息を切らして走る彼女のあとをついて一度ロビーに出る。そこで見た光景に僕は思わず息を飲んだ。

出国手続きカウンターの50メートル先位に一つのスーツケースがぽつりと置かれ、爆弾処理班の男が何やら作業をしている。そのスーツケースを中心に半径50メートル位の規制線が張られ、規制線には5メートル間隔で迷彩服を着用し、機関銃を持った軍隊が立っていたのだ。数百人の旅行者は出国手続きを中断され、規制線の後方で緊張した面持ちで事態を見守っていた。

スタッフの女性が無線で誰かに言う。「今、到着しました」そして何やら会話した後で僕に残念そうに言った。「もう・・・遅かったです」


 ②へ続く

フランスでテロ②

①からの続き。

 その瞬間だった。物凄い轟音が空港中に響き渡り、ド・ゴール空港の窓ガラスがバリバリと音を立て振動した。あちこちから旅行者達の悲鳴が聞こえた。そう、その荷物は爆破されたのだ。爆発と一緒に中の物が20メートル程吹き飛んだ。同時にその荷物が僕のスーツケースであることは明らかだったのだ。下着を入れていたABCマートの袋が華麗に空中に散っていったからだ。

爆弾処理班が再び荷物に近づき、何やら調べて後で“OK”のサインを出した。そして規制線が解かれた。

スタッフと一緒に近づくとやはり僕の荷物だった。ケント・デリカット似の若いフランス人のスタッフで東北訛りっぽい流暢な日本語を話す男が訊く。
「あなたの荷物ですか?」
「・・・・・・はい」

そう、僕の荷物は爆発物と勘違いされ、軍隊が出動したのだ。事態の深刻さに呆然とした。“ヤバイなぁ・・・シャレにならないな、逮捕されるかなぁ・・・こっぴどく怒られるかなぁ”

「すみません」っと何度も謝る僕に対してケント・デリカットはけろっとして言う。「いやいや、よ大丈夫ですよ」
「へっ?」
「とりあえずスーツケースが壊れてしまったんで、これに入れましょう。」
彼はそう言って航空会社のロゴの入った巨大なケーキの箱みたいなダンボールを持ってくる。僕は考える。 “これ、ちょっとダサイなぁ。こんなのぶら下げて帰りたくないな
(自分でも凄いと思うが)僕はケント・デリカットに言った。
これ、格好悪いんだけど・・・」この期に及んで酷い男である。

彼は満面の笑みで「では、来てください」と言い、事務所の奥の部屋まで案内された。そこは『忘れ物保管庫』だった。何故か無数のスーツケースがラックに置かれていた。
「好きなの持っていってください」

“ラッキー!!”

そして僕は一番大きくて一番高そうな真っ白いスーツケースを選び、荷物を入れ替えたのだ。

結局、離陸は二時間遅れた。大迷惑である。後ろの席に座った小さな女の子が隣の母親に言う。
「ママー、さっきのおとすごかったね、びっくりしちゃったぁ」
「そうね・・・びっくりしたわね、でも、本当に迷惑な人ね、まったく」

それを聞いて僕はシートに深く深く頭を埋めた。

実は出国と同時に当時の日本の首相が訪仏したのだ。そういう意味では日本の航空会社は厳戒体勢だったのだろう。フランスはテロの国で、ちょっとその様なことがあるだけですぐに軍隊が出動するらしい。

あれからしばらくして国際情勢に詳しい人間に話したらこんなことを言っていた。
「まあ、もし9.11の同時多発テロ以降にそんなことをやっていたら・・・全然状況は違っていただろうな。とりあえず警察に連れて行かれ、帰国も延期になり・・・場合によってはバカなニュースとして報道されていたかもしれないし、賠償金やら何やらでお咎めをくらっていただろうな。日本の『YAHOO トピック』辺りに『日本人旅行者、テロと勘違いされる』なんて載ったかもしれないね。日本で新聞やテレビで報道されていただろうな」

何より驚いたのは、中の荷物が殆ど無傷だったことだ。スーツの袖が一センチ程ちょっと焦げただけだった。あの様な場合、爆弾処理班はスーツケースの鍵の部分だけを破壊する。もし全部吹き飛ばしてしまって、本当に中に爆弾が入っていたら、詳しく爆弾を調べることが出来ないからだ。


 成田に到着して会社直行した。爆破されたスーツケースはフランスに行かなかった先輩から借りたものだった。
会社に到着すると、その先輩は自分のスーツケースが真っ白い立派なものに変わっていたので驚いて訊く。
「あれっ? 俺のスーツケースは?
僕は事情を説明し、「でも・・・ちゃんとグレードアップしてお返ししますよ」と笑って僕は言った。彼も苦笑いしていた。

中の荷物を出して早速仕事をしようと思った。
「あれっ? おかしいな・・・開かない」
「えっ?」
「・・・・・・」
「・・・・・・」

ケント・デリカットの野郎!!! 彼は僕の荷物を新しいスーツケースに入れ替えた際にクルクルとダイヤルを回しやがったのだ。


結局は・・・最初のスーツケースはド・ゴール空港で破壊され・・・新しいスーツケースもまた男数人で寄ってたかって破壊される運命となったのである。

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かいつぶり

Author:かいつぶり
職業 マスコミ

趣味 読書、楽器、小説を書く、料理、音楽

好きな食べ物・・・スイーツと酸味の少ないコーヒー、美味しいフランス料理と美味しいワイン。それさえあれば至福の時

好きな音楽 70年代のソウルミュージック。80年代前半の西海岸サウンド。あとジャズや、山下達郎周辺

好きな作家 ドストエフスキー、カポーティ、アーヴィング、ヴォネガット 

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