それでも生きていく為に・・・

音楽、料理、小説、時々、創価学会

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題目は叶う! (体験談①)

今回はある婦人部の方の体験談を掲載します。
題目は叶う、という絶対の法理とそのあり方を如実にあらわしている体験談である。本人には掲載につき承諾をとり、本人の下の名前以外の登場人物は全て仮名とさせて頂いた。若干長いので三分割にした。順番に最後まで読んで頂ければ幸いである。

        *  *  *  *  *  *

 初めまして。今日この場を借りて活動・体験発表させて頂く婦人部の山城勝子と申します。元気一杯頑張っていきますので、どうぞよろしくお願いします。

1945年の8月15日の日本が戦争に負けたその日に長野県の松本で生まれました。そんな日に生まれた私を親は『勝子』と名づけました。
物心ついた時には家族全員信心をしておりました。兄弟は3姉妹で一番末っ子で、女学生時代には松本市内を折伏に走っておりました。よく皆が影で「勝子ちゃんは将来婦人部長になる人だよ」と言っていたそうです。それ位、女子部時代には闘っておりました。

高校を卒業して東京に出てきて看護婦になり、しばらくして敏正さんという男性と出会い、結婚しましたが、彼は信心大反対でした。私の家族が説得しても駄目。でも愛していましたし、いつか分かってくれるだろう、とご本尊を御安置せずに新婚生活がスタートしました。彼は貴金属加工の仕事で独立し、順調で、一軒屋を購入。二人の男の子、長男・隆志、次男・敏弘にも恵まれ、経済的にも問題なく幸せな生活を送っておりました。幸せ一杯、順風満帆だったので信心に対する意欲も自然と消えてしまいました。


 結婚して8年が経ち、次男の敏弘が3歳の時に目の病気になり、入院し、手術をし、退院し、通院をしばらくしていたある日の事です。担当の医師の方が診察室で「敏弘君、もう完治しましたよ。もう病院に来ないでいいですよ」と言った言葉を聞いた途端に私の意識が遠のき、その場で倒れてしまいました。気付くとその病院のベッドでした。
夫は「ちょっとした疲れだから・・・大丈夫だよ」と言ってくれ、私も敏弘の事で気を張っていたのでそれが緩んだので倒れたのかな? って思っておりました。実家の親兄弟が見舞いに来てくれましたが皆どうしてか深刻な顔をしております。そして「ちょっと内蔵の病気みたいだから」と手術をし、すぐに退院出来ると思ってもいつまで経っても退院出来ません。

度々、強烈な腹痛に襲われ死にそうでした。しばらくすると髪の毛が抜け始め、かつらをつけることになりました。私は自分の病気がとんでもなく重い病気であることを段々と自覚し、このまま死ぬのではないか、と怖くなりました。癌ではないかと。しかし誰もちゃんと教えてはくれませんでした。
死を意識すると同時に、夫と、3歳と7歳の息子を置いては死にたくありません。今まで信心から離れていた自分を反省し、個室のベッドの上から題目を一日何時間もあげました。


ある日、夫に必死で言いました。「どうか信心させて欲しい。どうかあなたもやって欲しい」と。必死で訴える私に夫はついに肯いてくれ、昭和52年の1月に夫と息子二人が入会しました。
実は、私の家の隣が偶然学会の拠点で、婦人部の樋口さんという人が住んでおりました。信心出来ない私を心配して私の親が「隣に住んでいる勝子は私の娘だけれども、くれぐれもよろしくお願いします」と繋げてくれ、私も夫に内緒でその方と色んな話をしました。仮退院した時などは、信心に対する想いと後悔、家族の事、私の想いなどをその方だけに色々と打ち明けたりもし、彼女は激励してくれ、影ながら題目を唱えてくれておりました。


 家族が入会して3ヶ月が経った1977年の4月25日です。数日前に私に「どうか、お山(大石時寺登山)に登って欲しいの」と説得された夫と息子達は地元の学会員の方と一緒に大石寺に向かいました。
病院のベッドから見送り、二人の息子達が「バイバイ」と可愛く手を振って笑顔で病室を出て行った後に私はなんかとても嬉しく、安心し、ホッとしました。何故か朝から体調もよく、春の柔らかな日差しがポカポカと病室内を満たしておりました。次第にゆっくりと意識が遠のき・・・体の力が抜け、次第に・・・吸い込まれる様に・・・そう、私は今世の生を終えました。32歳でした。半年前に病院で倒れた時にはもう既に末期癌で余命半年と医師から夫に宣告があった様です。敏弘の目の病気が完治するまで、私の体は待っていてくれたのだと思います。

②へ続く。
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題目は叶う! (体験談②)



①からの続き。

 私が死んでから、夫は自営業をやりながら3歳と7歳の子供を一人で育てる生活が始まりました。
朝は二人の朝ごはんを作り、敏弘をバイクで保育園に送り、仕事をし、4時にはまた保育園に迎えに行けなければなりません。夕方から夕ご飯を作り、お風呂に入れ、洗濯をし、二人を寝かしつけてからまた仕事です。当然、私がいた時よりも仕事を思う存分出来ません。受注・納品という仕事ではなかなか納期が遅れてしまいます。次第に注文が減り、経済的にも苦しくなっていきました。敏弘が小学生の時には水洗トイレのタンクが壊れ、直すお金もなく、家族は用を足すたびに台所からホースを引っ張ってトイレを流しました。中学生の頃はお風呂が壊れ、それ以降は銭湯通いです。
一軒家を買った、といっても借地に立つ築20年の13坪程の小さな中古の家を買っただけです。木造で雨漏りも酷く、洗面器をおあちこちに置いてもすぐに漏れてしまい、濡れた畳はカビだらけです。ネズミが繁殖し、その辺りで死んで腐敗しても家族誰も臭いに気付かない位の悪臭が家に充満しています。ワイドショーでよく取り上げられる「ごみ屋敷」みたいなものです。二層式の洗濯機の脱水槽が壊れ、真冬でも毎回手で洗濯物を絞らなければなりません。生活保護を受け、借金を重ね、心中しようと夫は寝ている息子の首を何度も絞めたこともありました。「ドライブに行こう」と息子達を山奥に連れて行き、自動車の排気ガス一家心中を何度も試みました。

こんな家にはいたくない! と隆志(長男)は高校在学中に家を飛び出し、敏弘はアルバイトをしながら自費で高校に行きました。
悪いことは重なるものです。夫は敏弘が高校一年の時に自らバイクで転倒し、体中骨折して入院。それがきっかけで自営業を廃業しました。

家にはご本尊(仏壇)はありましたが、信心が嫌いな夫は家族が入会していることを子供達には言いませんでした。誰もご本尊に手を合わせてくれません。仏壇にはホコリが一センチ程積もることもありました。常に仏壇は開けっ放し、息子達は時折掃除機をかけるのですが、なんと掃除機を直接ご本尊にかけていました。とんでもないことをしておりました。


 時が経ちます。敏弘が23歳の時に高校の友人の大塚君に仏法対話されます。彼は本来は違う人を折伏しようと祈っていたのですが、祈れば祈る程、敏弘の事が頭に出てくるのです。大塚君と家は10キロ程離れてましたが、車で通ってくれ、誠心誠意対話してくれました。敏弘は学会の事も信心の事も知りませんでした。何故ならそれまでの20年間、地元学会員の方々は、父が学会嫌いなのを知ってあまり接触しませんでしたし、何より父が隠していたのですから。

そんな時に事件は起きます。借地の大家さんが立ち退きを迫ってきました。しかし、驚いた事に立ち退き料として数千万円のお金をくれるというのです。実は夫が廃業した時点で、その大家さんは経済苦の我が家に同情してくれ、約9年間借地代を無しにしてくれました。そんな中での立ち退きですから、せいぜいそれまでの借地代を無しにして、引越し代位を出すのが相場です。でも数千万円のお金を「今まで住んでくれてありがとう」と言って我が家にくれたのです。

結局そのお金で一括でマンションを買い、借金を返しました。これもまた面白いことが起きます。大原君と長男の隆志が偶然にも同じ街に住んでおり、隆志が「どうせ家を買うなら俺の家の近くがいい」と言ったので、買ったマンションは大原君の二つ隣街でした。更にマンションのリホームの関係で一ヶ月間だけ行く所が無くなった我が家が臨時で借りたアパートは大原君と同じ駅を利用する事になりました。
距離的に近くになった大原君と敏弘はより密に会うようになり、敏弘は入会前から会合に出始めます。会合で彼は何かを気付いて言います。「ここ(会場)にある曼荼羅と同じのが家にもあるよ」と。
大原君は驚きます。学会員なのかどうかと。敏弘は言います。「多分同じのだと思う。もしかしたら母がやっていて、死んで、ただ残ってるんだと思う」と。
敏弘は私の事を知る限り話してくれました。結局は、母はやってたけど、その他家族は入会していない、という結論になり、折伏が続きました。

購入したマンションは14階建ての最上階で、鉄筋で、ちゃんと流れるトイレ、当たり前ですね、があり、追い炊きが出来るお風呂があり、晴れた日には富士山も見えます。

③へ続く。

題目は叶う! (体験談③)



②からの続き(最後)
 

 それから入居した半年後に敏弘は大原君の紹介で入会しました。ご本尊は取替えましたが、下の方が切れていた様です。ご本尊御安置の時に学会の人が来た際に、夫は畳に頭をつけて「息子をよろしくお願いします」と言ってくれました。信心をあれだけ反対し、私の信心を許さなかった彼はそこで全てを清算したかったのだと思います。

 入会して一年程して、敏弘は樋口さんの事を思い出しました。以前住んでいた家の隣の婦人部の方です。敏弘は自分が入会した創価学会と樋口さんもまた創価学会であることを分かり、挨拶に行きました。
敏弘は報告します。「引越してしばらくして学会に入りました。頑張ってます」と。樋口さんは「よかったよかった」ととても喜んでくれ、「実は話があるの」と中に入る様言いました。敏弘はそこで初めて全てを聞くことになります。敏弘はそれまで父から、私の実家で私だけが信心をしておらず、病気になって周りから無理矢理説得されて私のみ入会した、と嘘を教えられていました。けれども実は私が二世で松本時代には信心頑張っていたこと、父(夫)に反対されて出来なかったこと、病気になって病室で題目をあげ始めたこと、家族を入会させたこと、私がお願いして大石寺に行ってもらったその日に死んだこと。つまり自分が3歳と23歳の時に二重入会していた事実も初めて知る訳です。

「お母さんはあなた達が大石寺に行ってくれたから安心して旅立ったのよ。でもね、お父さんは、『もしあの時に大石寺に行っていなかったら妻の死に目に会えたんだ』とあれから学会を恨んだのよ。大石寺から帰って来た時にはお母さんは既に息を引きとっていたんですから」

そして樋口さんは言いました。
「これから話すことはお母さんの遺言だからちゃんと聞いておきなさい。いつかあなたに言わなきゃいけないと思っていたけれど、気付いたらあなた達引越してしまってどこに行ったか分からなかったから、ずっと心残りだったの。でもよかったわ」

敏弘は黙って聞いていました。

「お母さんは死ぬ前に私にこう言ったのよ。『私には夢があるんです。私は信心は旦那の反対でしばらく出来ないけれど・・・それはいつか二人の息子達が学会の庭で思い切り活動してくれるこなんです。文化祭で大活躍してくれることが夢なんです。でも・・・お兄ちゃん(隆志)は性格的に無理かなあ・・・でも俊君(弟)はいつかやってくれると信じているんです』とね。」

敏弘は静かに涙を流しておりました。


 さて、それからの敏弘は、波はありますが、学会の庭で思い切り活動してくれております。
私が皆様に言いたいのは、生きている時に祈っていたことが死んで20年して叶ったんですね。確かに生き延びたいとも祈ったかもしれません。しかし、自分よりも家族の誰か、特に敏弘が、いつか信心で立ってくれる様に祈っておりました。樋口さんに語った様にそれが私の夢でした。20年という歳月を要しましたが、大原さんが出現してくれて、廃屋の様な家からから立派なマンションに越せて、大原さん宅の近くに住む事になり・・・そうです、肉体は死んでも題目は叶うんですね。だから生きている皆さんの題目が叶わない訳ありません。そうですよね?

今でも敏弘は仏壇の前で私に語りかけてくれております。
「信心これでいいか?」って。私が仮に死なずに生きて広宣流布する分も合わせて広宣流布するんだと決意してくれております。

それよりも私は敏弘に言ってやりたいです。コンピューター使ってブログとかいう訳の分からないもので信心のことを書く暇があるなら、その間、題目を上げ、家庭訪問でもしなさいよ、てね。折伏でも行ってきなさいってね。どうか誰か代わり言って叱ってやってください。よろしくお願いします。

今日は本当にありがとうございました。

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かいつぶり

Author:かいつぶり
職業 マスコミ

趣味 読書、楽器、小説を書く、料理、音楽

好きな食べ物・・・スイーツと酸味の少ないコーヒー、美味しいフランス料理と美味しいワイン。それさえあれば至福の時

好きな音楽 70年代のソウルミュージック。80年代前半の西海岸サウンド。あとジャズや、山下達郎周辺

好きな作家 ドストエフスキー、カポーティ、アーヴィング、ヴォネガット 

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