それでも生きていく為に・・・

音楽、料理、小説、時々、創価学会

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信仰の実証とは何か

 その信仰が正しいか否かの判断基準として、“実証”というのがある。その信仰者の“姿”そのものである。外部にしろ、ひねくれた内部(?)にしろ、学会員の姿、つまり実証というものを客観的に見て、その人の信心、学会の信心というものの効用、効果を見極める節があるのではないか。

「あの人は凄い!!」という要因に、良い家に住んでいるとか、一流企業に勤めているとか、青年部だったら結婚しているとか・・・良い車を持っているとか・・・もっと言えば給料はどうとかがある。但し、それを以って逆説的にそれらの人間の信心が正しかった、と判断するのは短絡的である。そんな簡単な話ではない。


 ある男子部の知り合いの幹部の勤める会社が東京のS区のEという街にある。若者が集まり、お洒落な店が多くあり、高級住宅地である。その幹部がその街の男子部の会合にたまたま参加する機会があったらしい。信心指導をしたらしいが、後日、こんな苦言を呈していた。

「なんかさあ・・・そこにいる男子部員は、地域柄もあって、結構金持ちだったり・・・いわゆるエリートなんだよな。で、指導するんだけど、指導する幹部の社会的地位みたいのをかなり重視するんだよ。相手が社長かどうかとか、着ているものとか・・・つまり自分達より“実証”を示している幹部の話しか聞かないんだよな」


 逆にこんなこともある。
脱会者、組織不信者がよく言う“ざまあみろ”理論である。
一生懸命活動してきた学会員が、離婚した、リストラされた、一家離散になった、犯罪を犯した、子供がグレた、病気になった等々を持ち出し、「頑張っていたのにねえ・・それでもあんな風になってしまって・・・」と半ばあざ笑い、自分が信心(組織)から離れた理由を自己正当化する。「頑張って学会活動した結論があれじゃあね。ははは」みたいに。

数年前、壮年部でバリバリやっていた幹部が仕事で独立をした。しかし、なかなか上手くいかず、経済的にかなり困窮してしまった。息子も仕事を手伝っていたが、部員さんにジュース一本買ってあげるお金すらなかった。
それまで威勢よく組織の最前線で指揮を執っていたその壮年幹部とご家族に対し、組織の人間(特に婦人部)は「あれが幹部のなれの果てよ」と影でせせら笑った。「どこか信心が間違ってたのよ」という風に。
しかし、そのご家族は負けなかった。先生に対する想いも誰よりも強かった。次第に仕事も軌道に乗り、難を乗り越え、実証を示し、体験発表する機会を持つまでになった。そうなると組織は面白い。手のひらを返す。「やっぱりあの人は凄いわ」とか言い出し、挙句の果てには本人達に(嘘で)「影ながら祈っていたのよ」と言い出す始末である。笑わせるな!!


最近のコメントの中に

「ご家族の一人が治る見込みのない病気で寝たきりにも関わらず、折伏に頑張っているその人から入信する人なんているのでしょうか?」というものがあった。

では逆にお金持ちで健康で一家和楽で恵まれた実証を示さないと折伏出来ないのだろうか? それは間違っている。

大聖人、戸田先生、池田先生はどうだったのだろうか。
大聖人は捕まり、何度も処刑されそうになり、流罪までされた。自ら「卑しい人間」と(謙遜して)卑下する位である。戸田先生は事業に失敗した。池田先生は病気がちで洗面器に血を吐きながら会合で指導した。貧乏で同じワイシャツを何日も着ていた。それでも折伏してたのだ。誰もが羨ましく思う存在にならないと“幸福”を説く資格がない、と思うのは間違っている。

例えば、”守られた信心”最低レベルの信心である。何かにつけて守られた、と実感して感謝している様な信心では駄目である。本当に広宣流布し、福運を積み、人間革命(宿命転換)する信心には必ずが訪れる。その難は一番自分の“痛い場所”に出る。周りがドン引きする様な所に出る。それを通過し、乗り越えて初めて宿命転換と言える。逆に言えば、難の訪れない信心をしている時点では自分の信心が間違っていると思った方がいい。その“難”の部分だけを取り上げて、周りが一喜一憂するのも間違っている。“あんなに頑張っていたのに”と。

前出の「ご家族の一人が治る見込みのない病気で寝たきりにも関わらず、折伏に頑張っているその人から入信する人なんているのでしょうか?」

という意見についての僕の感想は、そういう問題を抱えながらも(家族以外の)他人の幸せの為に動いているその人の“心”こそ実証ではないだろうか。
誰かの一時期の負の“実証”だけを切り取って、誰かの信心を判断するのはおかしい。この信心は一生成仏である。長い目で見なければいけない。

御書の「いかなる病さわりをなすべきや」とは、どんな病気も治し、障害を克服できるという意味ではない。足の無い方に足を生えさせる信心でもない。癌を絶対に無くせる信心でもない。その病気や障害が、自分に取っての障害として捉えられなくなる自分に成れる、という意味である。体が不自由でも、癌でも、家族にどんな問題を抱えようとも、経済的に苦しくてもそんな事を不幸と捉えず、前向きに快活に生きることの出来る信仰がこの信心である。
つまりその心が実証である。心に実証があれば、(人によって時間の違いはあるが)目に見える形でその人は必ず栄えていくであろう。


実証という点で、人(や組織)に認められる様な信心をしようと心がけるといつか破綻する。また、そういう一念の人は信心を辞めた方がいい。たくさんお金をかけて病院に行った方が、あるいは学会活動しないで仕事をバリバリやって稼いだ方が実証なんて簡単に示すことが出来るからである。
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悩める学会員

 何の為に学会活動をしているのか、何の為に祈り、先生の為に動くのか・・・

気分がすぐれない時に時折、ため息混じりに自問自答する。一体何が僕を突き動かすのだろうか、と。

男子部、女子部、壮年部、婦人部。それぞれにおいてそれぞれの闘いがあり、また、家庭があり、恋人がいたり、仕事があり、子供がいたり、個々の趣味があり、・・・それぞれに悩みがあり、課題があり、目標があり・・・それでも・・・ああ、なんだかんだと皆、本当に凄いと思う。よく頑張っている。

学会においては、個人的に苦手な分野もあるだろう、苦手な人もいるだろう、信心以前に組織の中の人間関係に振り回されている人もいるだろう。プレッシャー、目標、使命、次から次へと押し寄せてくる“闘い”や打ち出し・・・冷静に見て結構皆疲れているよな。声にならない悲痛な叫び声をあげているよな。仕事から帰ってきて家でゆっくりビールを飲みたいときもあるだろう。週末は思い切り羽を伸ばしてどこかに出かけたいだろう。気心知れた外部の友人と思い切り遊びたいだろう。
しかし、僕らは連日の様に会合があり、週末も決まって会合があり・・・・一体何の為の信仰なのだろうか。一体何の為の学会活動なのだろうか。と立ち止まってふと考える時がある。

しかしだ。それでいいのだ。そう思っていいのだ。それが妙法だ。「妙」は法性、「法」は無明(迷いの生命)である。 『法性無明一体なるを妙法と云うなり』と御書に書いているだはないか。妙=法性はイコール仏界であり、無明はイコール九界である。そして煩悩即菩提である。煩悩や迷いを徹底的に消し去ることではなく、煩悩を持ちながらも自分らしく悠々と満足に生きることである。(戸田先生の言葉) ただ、大事なのは自分には仏界(仏性)があることを確信し続けることである。なにもガンジーやマザーテレサやキリストの様に生きろ、そういう人間になれ、という訳ではないのだ。ありのままでいいのだ。

けれども『心の師とはなるとも心を師とすべからず』との御書の言葉通り、自分のエゴ、怠惰な気持ちに振り回されるな、支配され続けるな、という意味である。
学会活動に疲れ、悩み、同志に不信を抱く時もあるだろう。そんな時はご本尊の前に座り、祈り、決意する。そしてまた迷い、悩む。またご本尊の前に座る。また悩む。その繰り返しでいいのだ。少しずつ前進しているのだから。

 
 僕は常に自分に言い聞かせている二つの言葉がある。
『全部自分だよ』『全部試されているんだよ』である。自分次第で一切が変わる。迷い、不信も全て試されているんだ、と。そう、仏法に無駄はない。

僕は以前、ある部員さんに自分の率直な想いを語った事がある。
「正直さあ、学会活動は辛いよ。極論だけど・・・365日のうち364日は辛いかもしれない。しかし、そんな中で365目にやってくる一日、例えば部員さんが『この信心凄いですね』か『題目あげて頑張ったらこんなこと(功徳)がありました』とか喜んで言ってくれるその顔や声を見たり聞いたりした時に全ての苦労が吹き飛ぶんだよね。その時の喜びは、世法(一般社会)で得られる喜びの一切を超越しているんだよな。それがあるから続けられるんだよ」

偽善ではない。マスコミに身を置くとして、芸能界や音楽業界の中枢で仕事もしてきた。ミリオンセラーのアーティストのごく近くでも仕事をしてきた。地位、名声、お金・・・一般社会においてのいわゆる“成功”の象徴的な事象の中にもいた。喜びも共有もしてきた。しかし、学会活動の中で得られるささやかな喜びには勝てない、と断言できる。


ある作家はこう言っている。
『人生は何を得たかではなく、どのように得たかである』と。何かを獲得し達成することも大事だが、どのように得たか、というそのプロセスが大事である。後になって自分の血肉となり財産になっているのは、何かを得て獲得したという事実よりも、そこに至るまでにどのような心持でそこに挑戦し、歩み、戦った記憶である、と思う。

大好きなギターリスト(アメリカのバンド『TOTO』)スティーブ・ルカサーの言葉である。

『お金や名声は一度手に入れたら重荷になるだけ。人生に必要なのは、素晴らしい思い出と精神的な豊かさだ』

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かいつぶり

Author:かいつぶり
職業 マスコミ

趣味 読書、楽器、小説を書く、料理、音楽

好きな食べ物・・・スイーツと酸味の少ないコーヒー、美味しいフランス料理と美味しいワイン。それさえあれば至福の時

好きな音楽 70年代のソウルミュージック。80年代前半の西海岸サウンド。あとジャズや、山下達郎周辺

好きな作家 ドストエフスキー、カポーティ、アーヴィング、ヴォネガット 

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