それでも生きていく為に・・・

音楽、料理、小説、時々、創価学会

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卒業 & あけおめ

あけましておめでとうございます。

去年はコメントへの返信や更新が滞り、申し訳ありません。
一応、元気にやっております。

そう、去年の秋に男子部を卒業し、壮年部でぼちぼちやってます。
色々書きたいこともあるので、今年は更新頑張りますよ。
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お題目で禁煙成功?


 半年近く前の話である、
 ここ数年、毎年、春先の一ヶ月間位だけ、毎日の様に朝起きてから午前10時頃までヒューヒューゼーゼーと軽い喘息の発作が出る。もともと気管支は弱いが、調べてみると、季節の変わり目や気圧の変化でなることがあるらしいのだが、今年は特に酷い。例年は病院に行くほどでもなく10時頃には自然と収まっていたが、今年は会話するにも途中で咳が出てしまう。題目をあげるのも辛いくらいに咳が良く出る。

『我等が頭は妙なり喉は法なり胸は蓮なり胎は華なリ足は経なり此の五尺の身妙法蓮華経の五字なリ』(御義口伝、716ページ)

それで僕は治したい一心でこう祈った。「僕は妙法の当体で、仏なんだ。肺がゼーゼーして苦しんでいる仏なんて存在する訳ない。ありえないんだ。本来の健康な、仏の肺にさせてください。」と、ゲホゲホいいながらかなり真剣に、“胸”(肺)である“蓮”の文字を意識して祈った。

 翌日、症状は更に悪化する。題目をあげる。また翌日、今度はもっと酷く、咳が止まらなくて肩から背中の筋肉が萎縮し、凝り固まってしまい、発作で苦しくて座り込んでしまうくらいだった。もうダメだ、病院行こう。確か、その日は忘れもしない5月1日だった。

病院でレントゲンを撮り、「あ、ここ(を指して)、肺がんかも」と医者に脅され、よってCTまで撮られ、結局は特に肺には異常なし。で、主な原因は、まさかのPM2.5だった。隣の国の関係のないことと思っていたが、まさかそれで関東に住んでいる自分がやられているとは思わなかった。
当然、「煙草吸いますか?」という質問があり、僕は約20年間、一日40本近く吸うヘビー・チェーンスモーカーであること言い、更に(自分で色々調べた結果)、今回の症状を喫煙ゆえの若年性肺気腫であるかもしれないと密かに心配していたんです、と明かすと

「まあ、肺気腫ではありませんし、今回の症状は煙草が直接的な原因ではないけれど、どちみち煙草は体と肺には悪いので辞めた方がいいですよ」という趣旨のことを言われた。

で、薬を処方してもらい、診察料を払い、病院の外に出た瞬間に、前触れもなく突然思った。

“あっ、煙草やめよう”と。

さっき医者に言われたからとか、健康の為とか・・・頑張って「辞めよう」と意図的に決意・決心したのではなく、「やめよう、うん、もう吸うのやーめーた」と自然と無理せず思えたのである。例えるなら、これまで好きで忘れられなかった異性のことを瞬間的に“もう、どうでもよくなる”感じだ。そしてその瞬間から煙草を吸いたいと一切思わなくなった。瞬間的に僕は禁煙に成功したのだ。 “煙草を吸う、吸いたい”という意思・願望があの一瞬のうちに自分の中の概念・執着から綺麗さっぱりなくなったのだ。発作も病院から出された薬でその日のうちに完璧に無くなった。

 僕は20年間、煙草を中心に生活ていたといっても過言ではない。
(仕事や食事や会合など) “何かの後”のコーヒーと煙草のセットは人生におけるささやかな幸福の時間の一つでもあった。煙草が切れれば夜中であろうと雨であろうと買いに行く。「あー、この仕事終ったら一服しよう」とか「電車降りたらどこで煙草吸うかな?」とか、「あー、早く煙草吸いたいな」とか、そんな思考に支配されていた自分だった。酒と煙草のどちらかを辞めなければならないとしたら迷わず酒を選ぶだろう。喫煙者の仲間内からは、僕はどんなことがあっても最後まで禁煙しないだろうと思われていた。

「仏の、本来の肺にさせてください」という祈りが、僕の身体が“害”であるニコチンを欲することを無くし、綺麗な肺に戻るべき方向に向かったのだろう。

 あれから5月、今も当然吸っていない。ひと時も吸いたいと思わなかった。禁断症状も全くない。お酒の場でも全然吸いたいと思わない。普通、禁煙するのは大変で、禁煙治療にはだいぶお金がかかるらしいが、わずか数日間の真剣な題目で、キャリア20年間の喫煙者が禁煙に成功できたのだから、有難い限りだ。

長くなったけれど、僕にとっては決して小さくはない人間革命の一つでした。(あくまで僕個人の事例に過ぎませんのであしからず)

カラスの雨宿りと白い鳩

 雨だから夕方まで家でのんびりしていたんだけど、午前中の早い時間にベランダで“カーカー”と鳴くのが聞こえるので、見てみると物干し竿に結構大きなカラスが二羽、並んでちょこんと止まり、どこか遠くにいる仲間?に何かを知らせる様に鳴いていた。驚いてしまった。カラスがウチに来ることもベランダなんかに図々しくとまっているのも初めて見たからだ。二羽はきっと夫婦だろう。よく見ると可愛らしい。毛並みも綺麗だ。

“すみません、ちょっと雨宿りさせてもらってます”みたいな感じのつぶらな目と視線があう。しばらくして二羽仲良く飛び立って同じ場所に飛んでいった。数時間して雨足がまた激しくなると、さっきの二羽が戻ってきてカーカーと鳴いていた。家は十数階の結構高い場所でベランダの隣の窓の手すりには鳩が数羽よく止まっているんだけど、今日は初めて白い鳩が一匹だけ混じっていることを知った。

白い鳩の少し先にカラスが二羽とまっている・・・なんか不思議な光景だった。

カラスというと、その色からして、迷信で不吉な動物かと思われがちだけれど、調べてみるとそうでもないらしい。天照大神の“遣い”とか、海外では“真実を運んでくる”とか“智慧”や“明日”の象徴とか好意的な動物である様だ。天照大神の“遣い”はどうか知らないけれど、なんか僕の最近祈っていること、求めていること、心の中身みたいだ。

普段だったら自分の家にカラスなんてとまっていたら、不吉で不潔で、あっち行け~、なんだけど、何故か親近感の湧くカラスと平和の象徴の白い鳩のコントラスト・・・で、その後、出かけた先でたまたま“勇気の一歩”を踏み出し(大したことではありませんが)、人生で新たな自分を発見した一日でありました。(恥ずかしくて書けません)

 で、今日の記事の本題や意図は、カラスと白い鳩のツーショットが珍しいとか、その後の自分の体験?とか、では無い。

そう、実は、そのカラス、最初にカーカー鳴いている中で(午前中だった)、いきなり(九官鳥みたいに)『おはよう!』と二回叫んだのだ。一瞬耳を疑ったが、はっきりと二羽のうちの一羽は、綺麗な日本語で『おはよう!』と辺りに轟く様な大声で言ったのだ。嘘ではない。

 カラスって言葉じゃべれるのか?どこかで人間から覚えたのかな?

 とにかく、カラスは人間の言葉をしゃべる、という記事でした。ホントだよ。

いじめ、自殺願望、祈り



 昨年も一年間の自殺者が3万人を越えてしまった様である。先日、携帯でこのニュースを見てふと思ったことがあったので書いてみる。

 僕は3歳の時に母を亡くして今だに何も記憶がない。父は自営業だたったが、2人の息子を育てる為に仕事との両立が難しくなり、一家は生活保護、一家心中未遂数回、父による暴力・・・家の屋根の所々がなく雨漏り三昧(笑)、ネズミが家の中で死んで腐乱しても気づかない、トイレは水が流れず、風呂も壊れていた。凄く貧乏だった。 詳しくは『題目は叶う』①
ごくたまに連れて行ってもらえるマクドナルドでもチーズバーガー1つだけ。それでも狂喜乱舞したものだ。風呂は週に一回程度、着ているものも汚く、僕自身性格は暗く、陰気で、勉強が出来ず、スポーツもダメ・・・そんなことだから小学5年の頃にいじめにあった。

僕は5名程のグループに属していた。パソコンが好きで根暗な、休み時間には校庭にも行かず教室の隅にいる様なグループだった。女の子や、活発で明るい同級生にも相手にされない様なグループだった。僕はそのグループの中で皆からいじめられていた。無視、からかい、引きずり回される様な暴力・・・結構壮絶だった。

家には仏壇とご本尊があった。母が学会員だったので(当時は知らない)死んで仏壇とご本尊だけが残った。しかし、学会のこともご本尊が何たるかも知らない。母の記憶もないので母に対して愛着もない。仏壇にも手を合わせない。ご本尊は常に開きっぱなし、ホコリが1センチも積もり、年に数回掃除する時は掃除機で直接仏壇とご本尊を掃除していた。しかし、叔母(母の姉・学会員)の家に夏休みを利用して長い間泊まりに行った時は朝にお経を覚えさせられた。それが何かよく分からなかったが、ふらがなで書いた経本で勤行を覚えてた。
それが信仰というもの、創価学会という事は多分知らなかった。よって自分の家の仏壇と同じものだということすら知らない、母が学会員だなんても知らなかった。
ただ、何かあったら南無妙法蓮華経と唱えなさい、とだけ言われてた様な気がする。

いじめが酷くなると、僕は死にたいと思った。毎日家で父に内緒で泣いていた。そして、気付くと僕はホコリまみれの仏壇向かって、南無妙法蓮華経と唱えていた。仏壇に向かって、記憶のない母親に対して「お母さん、死にたい。辛い、もういじめれれたくない。こんな人生嫌だ!」と嗚咽を漏らしながら必死になって題目を唱えていた。別に毎日長い時間となえていた訳ではない。時折、数分間だけだった。といっても、小学5年生には自殺する勇気も方法も無かった。


ただ、それから次第に同級生の活発なグループのリーダー格から休み時間や放課後に「〇〇ちゃん(僕)、俺達と遊ぼうぜ!」と言われて、彼らの後について遊ぶ様になった。運動の苦手な僕は必死になって彼らの仲間になろうと努めた。僕が当時どれだけ鈍くさいかと言うと、野球で空振りして肩口から出たバットの先にやっと到達したボールが偶然に当たってピッチャーゴロみたいな感じである。

スポーツ好きでクラスでも中心的な人数の多いその明るいグループに属する様になり、僕がいじめられていたグループの友達も僕を相手にしなくなり、いじめがなくなった。そしてクラス代えがなくそのまま小学6年になると勉強とスポーツに頑張り、テストではクラスで一番を争う様になり、それまでカナヅチだった僕は半年で50メートル泳げる様になった。性格も見違える様に明るくなり、たった一年ですっかり色気づいていた(笑)

いつかは覚えていない。誰から聞いたかも覚えていないが、かなり後になって知ったことがある。それは、当時、いじめが酷くて隠れていつも泣いていたのを父は知っていて、父は下校時に学校から出てくる明るいグループの前出のリーダー格を見つけると(僕の家の目の前に学校があった)、何度も「ウチの〇〇(僕)は〇〇達からいじめられているみたいだから、お願いだからウチの〇〇(僕)と遊んであげてくれないか」と頼んでいたらしい。
そんな父のお願いで彼らは決して性格の合うタイプじゃない僕を遊びに誘ってくれ、僕のいたグループから引き離し、自分のグループの一員にしてくれたのだろう。


 23歳で入信して入15年も経つが、今こうして書きながらふと初めて気付いたことがある。いじめにあっていた時に、このままだったら死にたい、いじめなんか嫌だ、とボロボロ泣きながら仏壇の前に座って訳も分からないまま唱えていたあの僅かな題目は叶っていたんじゃないか、と。

そう、僕は知らない間に、(入信10年以上前に) 既に小学5年生の時点で題目で祈りを叶えてしまったのだと思う。人間というのは心の底から絞り出す様に必死になって何かを求めれば与えられるものである、と(外部の)誰かが言っていた。断崖絶壁な状況だからこそ宿命転換が出来る、と先生の奥様が言われたことがある。

 当時は何も知らなかったけれど、小学5年生の時の、純粋で、必死で、しがみつく様な、あの題目の感覚を忘れてはいけないと思う。

挨拶 仏界と地獄界



 明けましておめでとうございます。

 このブログについては、去年の夏に学会の人事があり忙しくなったことで放置せざるを得ない状況になりました。閉鎖を考えましたが、“一時お休み”にし、コメント欄をチェックしきれない状況もあり、コメントは全て非公開にしました。
夏以降、様々なコメントや質問がありましたが、きちんとお答えもせず大変申し訳ありませんでした。


 去年は長い一年だった様な気がします。
特に震災と原発問題と夏の節電で様々な想いを抱きながら、多くの事を考えさせられる一年だった様な。
私生活においても“えっ? こんなことが?”ということが良いことも悪いことも起き、むしろその意味では再び御書と先生の指導を学び、大きく反省した一年でした。

去年の後半には、長いこと一緒に闘ってきた部員さんに言うのは、「半年か一年前までの自身がやってきた信心を僕は捨てたんだ」と言いました。
捨てた、とは大げさですが、全部一から反省しチャックし直しているいんだ、と。
その意味では、この信心とご本尊と先生への確信は比べものにならない位に得ることが出来ました。そしてこれまで僕と闘ってきた同志には、謙遜しながら再び信心と祈りの基本を確認し合う、良い年でもありました。

何よりも、それによって今は常に幸福だと感じて生きています。
本当に胸を張って「俺、本当に今幸せなんだよ」と皆に言います。例えば、仕事のことなど些細なことで悩んでいても、前日に「明日、絶対解決する」と深く強く祈り、翌日には案の定オセロが黒から白にパタッとひっくり返る様に一瞬にして解決すると、ご本尊の凄さを更に実感して喜びのあまりその場で泣き崩れそうになる位な状況が沢山ありました。
祈りが叶ったことが凄いんではなく、毎日の様にこの信心の偉大さを実感出来ることが功徳なんだと思います。


 以前、教学担当者と話した時に地獄界仏界について教えてもらいました。
表に出ている活字としての教学(すなわち教学試験や様々な出版物で目に触れ、教えられてきたもの)では、地獄界と仏界はとてつもなく開きがある様な感じがします。スカイツリーの一番下と天辺とか、北海道と沖縄とか。
地獄界は、暗い部屋に閉じ込められ絶望しかなく、息をしているのも辛い、そんな最悪の状況に思います。逆に仏界は、当然、全ての相対的幸福も満たされた上で、自身には何不自由なく、他人に尽くす・・・言葉では言い表せない位の境涯、心の状態かと思います。でも、実はそうじゃないんだ、と。

地獄界とは、常に何かに追われている状況だと。仕事のこと、家庭のこと、お金のこと・・・様々なことに追われ、生活が受動的になり、悩みに常に心を奪われている状況だと。
仏界は、その悩みが解決していなくいても、ため息を漏らさず、憂いもなく、その状況を自ら心で楽しんでいることだ、と。
戸田先生は「仏とは生命である」と仰りましたが、自身の様々な生命を俯瞰して眺めながら、人生の様々な事象を醍醐味として味わい深いものとして捉え、現実的に進んでいることだ、と。

当然、そんな僕が仏界の境地にある凄い男であるという意味ではありません。しかし、様々起こる試練や苦しみや憂いを“いやぁ~、人生って醍醐味あるなぁ~”と頭をポリポリ掻いて苦笑いしながら、ご本尊に全てを感謝出来る様になっています。
先生は「感謝の題目をあげなくなると必ず行き詰まるよ」と教えてくれています。、悩みが出てご本尊の前に座った際に「これが僕の宿業なんですね。ありがとうございます」と先祖と自身の過去世と現世のこれまでの謗法と捉え、とことん悔いて、謝罪し、全ての事象に感謝します。

人生とは醍醐味である、と確信します。(相対的幸福も含め)向上心と成長は当然必要で貪欲に求めますが、しかし、他人や組織や誰かから自分がどう見られているか、どう比べられているか・・・そんな事、気にならなくなったと思います。
よって、特に学会組織においては相手を誰かと比べて評価したり、「この人は凄い」とか「この人はこの部分がダメ」とか心の中でジャッジメントすることもなくなりました。未来部から婦人・壮年部に至るまで、どんなに合わない人でも、また、僕を不快にさせるなタイプの人でも心の底から尊敬出来る様になったと実感します。

先生も書かれていますが「綺麗な花(バラ)にトゲがあるのではなく、トゲのある花にでも綺麗な花(バラ)が咲いているんだ」と感じる様に、またそう心がける様にしています。そういう心こそが信心(祈りと学会活動)において功徳の源泉ではないでしょうか。


 先生は結果(功徳)が出ない理由についてこう仰ってます。

「結果が出ないのは、インチキな祈りをしているか、インチキな決意をしているか、インチキな行動をしているか、そのどれかだよ」と。
場合によっては複数であり、全部インチキだったりするんですね。反省しなければなりません。

このブログは相変わらずのスタンスですが、今年もよろしくお願いします。

さて、お正月はもうすぐ終わりですが・・・


Rock'n'Roll お年玉/大滝詠一

一通の手紙



 は来年で70歳になる。まだ仕事をしていて元気だ。
父は三重県伊勢市の農家の村5人兄弟の末っ子で生まれ、16歳の時に父親と喧嘩して実家を飛び出し、東京に出てきて住み込みで働き始めた。
祖父は父が結婚してすぐに他界し、祖母は今から十年以上前に他界している。実家は村の名家で広大な田畑や山を所有している。父以外の兄弟それぞれが近所に住み、それぞれに数名ずつ(つまり僕のいとこ)子供達がいて、更にその子供もいるくらいだ。僕らの家族を含めて一族でかなりの人数になるだろう。
小さいときはよく伊勢の実家に行って遊んでいたが、社会に出てからは僕自身が忙しくてなかなか行く機会がなかった。叔父さん、叔母さん、いとこ達と、正直顔と名前がすぐに一致する人はあまりいなくなった。彼らも僕の小学生の面影しか覚えていないだろうし、長男が亡くなった9年前に最後に伊勢に行ったときには、知らない人ばかりだった。


 その一族(といえるほどでもない)の中で唯一信心をしているのが叔母の幸子さんだけだった。
結婚して旦那に折伏され、大変な苦労(旦那の5年に及ぶ失踪)をしながら立派に3人の子供を育てあげた。長男(いとこ)は村で造園業を営み、次男は日本で有名な画家である。詳しいことは聞いたことがないが、子供達はあまり信心をしていないらしい。(入会はしているだろう) 本家(実家)は学会と無縁である。

僕が23歳で入信したこと、父を折伏したことをとても喜んでくれた。4年前の都議選の時には、自分の東京の知り合いに変わりに行って欲しい、と電話をしてきてくれた。


 今年の3・16に向けた自身の闘いについてはいづれ書くが、題目を上げまくり、動き、また題目・・・という日々の去る3月8日に「幸子さんが危ないから、医者が今のうちに親族を呼んだ方がいい」と本家から連絡が入り、父はすぐに飛んでいった。
喉頭癌の手術をして、治り、回復したが最近またぶり返したらしい。しかし、行ってみると4月一杯は持つだろう、と多少元気だった。むしろわざわざ父が飛んできたので「アタシ、死ぬんか?」と泣きながら動揺したという。
それから僕は幸子さんの回復の為に祈りまくった。「創立80周年を絶対に元気で迎えるんだ」と。来月位には一人で伊勢にお見舞いに行き、信心の話を沢山聞きたかった。


 その幸子さんが3月14日の日曜に亡くなった。81歳だった。
どうしてもどうしてもどうしてもこちらを離れられない用事(信心をしていた幸子さんなら分かってくれるはず)があり、残念だが葬式(伊勢)には行けなかった。幸子さんの意向を受けて素晴らしい友人葬だったらしい
父が伊勢に発つ前日の月曜に「叔母さん(幸子さん)の供養にはオヤジが題目を唱えるのが一番だよ。一番う喜ぶよ」と言って、なんだかんだと仏壇から遠ざかっていた父と二人で題目をあげた。

 「そういえば去年の5月に幸子から手紙が来ていたんだよ。オマエのことも書いてあるから読んでおけ」 

亡くなってから見せるなよ!! 

と思ったが、それを読んでその場に座り込んでしまった。
幸子さんは田舎の農家の普通のおばあちゃんである。正直あまり学歴もなく、字も上手でもない。そのまま記す。


 『お元気ですか 長らく御ぶさたしております。私も元気にしています。毎日少しですが 畠(畑)に行って野菜を少しづつ作って毎日たのしんでおります。家に居てもひるまは一人ですし畠に行けばみんな道を通って行く人達が話しかけてくれますし それが何よりもうれしくて又色々と話も聞かしてもらって聞いてもらってそれがたのしんです。仕事はしていなくてもそれがたのしみです。

もう私も81ですから気持ちは若い時と変わらないと自分でも思っておりますが 体が思うようについてきませんん。これも年のせいですからしかたありませんし 自分達の母さんは88才まで今の年より(年寄り)にしてはぼけてなかったし どこがいたいとか悪いとか何も言はなかったけれど 自分が今81才になって母さんもたいへんだったんだなーとつくづく思います。
何も親孝行もしてやれなくて 今時分そんな事思ったり言ったりしてもしかたない事ですが自分が年とって思います。あなたははなれているからそんな事思わなくてよいんですよ。
 
(中略) 

私は あなたの事を○○子(本家の長男の長女)も心配しておりますが 私は(僕の父が)自分と同じ信心をしているから大丈夫だと安心しております。
しっかり都ぎ選の選挙も始まるしそれに一生けん命がんばって下さい。私もいつも選挙が始まると地区の方々に車で津や名古屋まで連れてもらって行っております。この間も津の方へ行ってきました。
信心だけは忘れずにやってやっていってく下さい。くれぐれもおねがいしますよ。それが信心が一番大事ですから 何かの時にはきちっと守ってくださいます。朝夕の勤行はきちんとしていますか。それをしないといけませんよ。たのみます。自分自身の事ですから。私も一生けん命やらせてもらってますから。
○○君(僕)にもよろしく。○○君(僕)はがんばっていると思い安心しておりますから。

ではそのような事ですからあなたも身体には十分に気をつけて毎日をすごして下さい。では又。
いつもでんわしようと思ってもすみません。私の事は気にしないで 元気にしておりますから(姉から弟へ)』


 父に向けた手紙であるが、使命をまっとうした信心の全てが詰まっている。こうした形で私的な手紙を公表する事に異論があると思うが、叔母さんはきっと許してくれるだろう。

哀しい雨


 「あっ!! 〇〇ぴーだ!」

元気のよい声が聞こえる。〇〇ぴーとは僕のことだ。僕の苗字を文字ってつけられたあだ名だった。
僕が会館に入るとロビーで遊んでいる里奈ちゃん(仮名・小学2年生)が駆け寄ってきて「じゃんけんしよっ!」と言う。ショートカットが似合うチャーミングな子である。

「さいしょはぐー、じゃんけんぽん・・・」

自分が勝つととても喜び、負けるとほっぺを膨らませて「もう一度・・・」と挑戦してくる。自分が勝つまでやめてくれない。ある時などは彼女は「さいしょはぐー・・・」と言ってパーを出す。当然僕はぐーを出している。彼女はイヒヒと笑う。

さて、僕だって負けてられない。 「さいしょはぐー」

僕はチョキを出す。里奈ちゃんはパーだ。「〇〇ぴー、ずるぅいい~」

近くにいたパパ(仮名・高野さん)が近寄ってきて一人娘の里奈ちゃんに向かって言う。

「里奈、こんなずるい大人になっちゃダメだよ」

近くではママがニコニコしながら僕らを見守っている。


 こんな光景がここ数年よくあった。里奈ちゃんとは“じゃんけん友達”だ。パパとは以前同じ本部だったが、その時はあまり接点がなかったが、彼が家族で隣の本部に引越し、僕の大学校の団長時代のある大学校生(河合君)と高野さんが同じ組織、同じマンションだったせいもあり、河合君の折伏の闘いを通して僕も高野さんと仲良くなった。河合君は入信まもなかったので高野さんを兄の様に慕い、お互い家族ぐるみの付き合いをし、信心を端から端まで教わった。

高野さんは昔やんちゃをやっていたのか剃りこみの跡があり、男気があり、“てやんでぇ~べらもうめぇ~”みたいなタイプだ。彼も奥さんも里奈ちゃんも家族全員、何故か僕のことを「○○ぴー」と呼ぶ。会館でばったり会うと、気付くと彼とは肩を組みながら話している。ざっくばらんな性格で大好きなメンバーだ。


 大雨が降る先日の事である。会館に着くとロビーでは彼の奥さんが一人でぽつんと立っていた。「あっ、○○ぴーだ」と元気よく笑顔で声を掛けてくれた。そして彼女は静かに頭を下げた。僕は深く頭を下げるだけで何も言えなかった。
会場に入ると溢れんばかりの人達が皆でゆっくりとゆっくりと題目をあげている。あちこちからすすり泣く声が聞こえる。

ロビーでは里奈ちゃんが組織の女子部員の胸の中でずっとずっとわんわんと泣いていた。しばらくの間、僕は呆然としながらそんな彼女を遠くから眺めていた。

「里奈ちゃん」と僕はやっと声を掛ける事が出来た。
彼女は涙でクシャクシャになった顔をちらりと上げ、「○○ぴー」と消える様な声で僕に向かって言った。
彼女の頭を撫でながら僕は言った。「今度またじゃんけんしようね」 
僕が彼女に掛けられる唯一の言葉だった。小学二年生の女の子に一体どんな言葉を言えばいいのだ。
彼女は小さく肯いた。「うん」 ほんの少しだけ笑顔だった。

会場から殆ど人がいなくなると、会場の真ん中にはぽつんと河合君が肩を落として座っていた。目に涙を溜めて黙ったままじっとご本尊を見つめていた。僕は彼に近寄り、肩をポンとだけ叩いて、黙って会場を後にした。


 会館の外では一層雨が激しさを増していた。バチバチと地面が悲鳴を上げているみたいだった。そして誰かの、多くの人の怒りさえ代弁しているみたいだった。

高野さんがその二日前の朝に亡くなった。まだ34歳だった。
以前から胸の痛みを訴えていた高野さんは二日前、やっとのことで病院に行こうと思い、病院に行く日の朝に自宅のトイレで急に倒れ、そのまま帰らぬ人となった。あまりにも突然だった。役職は地区幹部だったが、これまで20世帯近い折伏を決めていたのだ。


“病弱な奥さんと、まだ小学二年生の娘を残して、高野さん、アンタ一体何やってるんだよ!”

 ヘルメットを被り、原付に乗って哀しい雨の中を疾走しながら、やっと僕は声を上げて泣くことが出来た。

そう、叩きつける雨とその雨音は泣くには充分過ぎる位だったのだ。

フランスでテロ①

 以前の記事『選挙の功徳』で、飲酒運転で100キロで停車中の車に追突し、シートベルト無しで無傷でその場から逃げ、更に電柱を傾かせ、スナックに突入して半壊させ、結果誰一人怪我一つ無く、アルコール反応も無く免許に傷がつかなかった話を書いた。
それ以降、あらゆる面で人生がうまくいかなかったのだが、本当に福運を使い果たしたな、燃料切れになったな、と思った。

実は事故の一ヶ月前に物凄い粗相を犯している。ここまでいくと笑い話で、現在では実際に笑い話であるが、この件と車の事故で福運を使い果たしたと思っている。信心とは密接に関係ないかもしれないけど、結構面白い話である。馬鹿な男のまぬけな話である。

        * * * * * * * * *


 その時、僕は仕事でフランスのパリにいた。会社の社長と先輩の5名程でしばらく滞在した。目的は買い付けである。1000万円の現金を成田でフランのTC(トラベラーズチェック)に変え、分担して持ってフランスに入国し、時にはある店に陳列してあるものを「これ、全部ください」と言って買ったりもした。

事件は仕事が終わって帰る際のド・ゴール空港で起きた。僕らは出国手続の為にカウンターに並んでいた。日本の航空会社で多くの日本人観光客がいた。
会社の先輩が「俺がまとめて手続きしてくるよ」と言ってくれたのでチケットを渡し、受付を済ませ、中に入り、あとは出発を待つだけである。お茶を飲んだり、免税店を周ったり、煙草を吸ったりして時間を潰した。

時折こんなアナウンスが日本語と英語とフランス語で流れる。

『カウンター前に黒いスーツケースをお忘れの方、至急、係員まで申し出てください』  確かこんなアナウンスだった様な気がする。

僕は最初全然気にしていなかった。僕のスーツケースは青いのだ。

『カウンター前に黒いスーツケースをお忘れの方、至急、係員まで申し出てください』

アナウンスが頻繁にされる。僕は相変わらず聞き流していた。

『カウンター前に黒いスーツケースをお忘れの方、至急、係員まで申し出てください』

アナウンスの語尾に力が入る。2分おき位にしつこい程に繰り返される。

先輩の一人が首を傾げて言う。「オマエのスーツケースって・・・何色だっけ?」
「青ですよ」
「そうか」

『カウンター前に黒いスーツケースをお忘れの方、至急、係員まで申し出てください』


先輩が再び訊く。「なあ、オマエ、荷物チェックの際に、自分でコンベアに自分の荷物乗せたか?」
「・・・へっ?」と僕は驚き、しばらく考えて答える。「そういえば・・・乗せてないですね」
「・・・・・・」
オ、オマエだよ!!!

彼は歩いている日本人の女性スタッフを呼び止めて「コ、コイツです。荷物置き忘れたの」と言う。彼女はすぐに無線を取り出し、誰かに向かって「該当者と思われる人が見つかりました!」と緊迫した声で言った。「すぐに一緒に来てください!」

息を切らして走る彼女のあとをついて一度ロビーに出る。そこで見た光景に僕は思わず息を飲んだ。

出国手続きカウンターの50メートル先位に一つのスーツケースがぽつりと置かれ、爆弾処理班の男が何やら作業をしている。そのスーツケースを中心に半径50メートル位の規制線が張られ、規制線には5メートル間隔で迷彩服を着用し、機関銃を持った軍隊が立っていたのだ。数百人の旅行者は出国手続きを中断され、規制線の後方で緊張した面持ちで事態を見守っていた。

スタッフの女性が無線で誰かに言う。「今、到着しました」そして何やら会話した後で僕に残念そうに言った。「もう・・・遅かったです」


 ②へ続く

フランスでテロ②

①からの続き。

 その瞬間だった。物凄い轟音が空港中に響き渡り、ド・ゴール空港の窓ガラスがバリバリと音を立て振動した。あちこちから旅行者達の悲鳴が聞こえた。そう、その荷物は爆破されたのだ。爆発と一緒に中の物が20メートル程吹き飛んだ。同時にその荷物が僕のスーツケースであることは明らかだったのだ。下着を入れていたABCマートの袋が華麗に空中に散っていったからだ。

爆弾処理班が再び荷物に近づき、何やら調べて後で“OK”のサインを出した。そして規制線が解かれた。

スタッフと一緒に近づくとやはり僕の荷物だった。ケント・デリカット似の若いフランス人のスタッフで東北訛りっぽい流暢な日本語を話す男が訊く。
「あなたの荷物ですか?」
「・・・・・・はい」

そう、僕の荷物は爆発物と勘違いされ、軍隊が出動したのだ。事態の深刻さに呆然とした。“ヤバイなぁ・・・シャレにならないな、逮捕されるかなぁ・・・こっぴどく怒られるかなぁ”

「すみません」っと何度も謝る僕に対してケント・デリカットはけろっとして言う。「いやいや、よ大丈夫ですよ」
「へっ?」
「とりあえずスーツケースが壊れてしまったんで、これに入れましょう。」
彼はそう言って航空会社のロゴの入った巨大なケーキの箱みたいなダンボールを持ってくる。僕は考える。 “これ、ちょっとダサイなぁ。こんなのぶら下げて帰りたくないな
(自分でも凄いと思うが)僕はケント・デリカットに言った。
これ、格好悪いんだけど・・・」この期に及んで酷い男である。

彼は満面の笑みで「では、来てください」と言い、事務所の奥の部屋まで案内された。そこは『忘れ物保管庫』だった。何故か無数のスーツケースがラックに置かれていた。
「好きなの持っていってください」

“ラッキー!!”

そして僕は一番大きくて一番高そうな真っ白いスーツケースを選び、荷物を入れ替えたのだ。

結局、離陸は二時間遅れた。大迷惑である。後ろの席に座った小さな女の子が隣の母親に言う。
「ママー、さっきのおとすごかったね、びっくりしちゃったぁ」
「そうね・・・びっくりしたわね、でも、本当に迷惑な人ね、まったく」

それを聞いて僕はシートに深く深く頭を埋めた。

実は出国と同時に当時の日本の首相が訪仏したのだ。そういう意味では日本の航空会社は厳戒体勢だったのだろう。フランスはテロの国で、ちょっとその様なことがあるだけですぐに軍隊が出動するらしい。

あれからしばらくして国際情勢に詳しい人間に話したらこんなことを言っていた。
「まあ、もし9.11の同時多発テロ以降にそんなことをやっていたら・・・全然状況は違っていただろうな。とりあえず警察に連れて行かれ、帰国も延期になり・・・場合によってはバカなニュースとして報道されていたかもしれないし、賠償金やら何やらでお咎めをくらっていただろうな。日本の『YAHOO トピック』辺りに『日本人旅行者、テロと勘違いされる』なんて載ったかもしれないね。日本で新聞やテレビで報道されていただろうな」

何より驚いたのは、中の荷物が殆ど無傷だったことだ。スーツの袖が一センチ程ちょっと焦げただけだった。あの様な場合、爆弾処理班はスーツケースの鍵の部分だけを破壊する。もし全部吹き飛ばしてしまって、本当に中に爆弾が入っていたら、詳しく爆弾を調べることが出来ないからだ。


 成田に到着して会社直行した。爆破されたスーツケースはフランスに行かなかった先輩から借りたものだった。
会社に到着すると、その先輩は自分のスーツケースが真っ白い立派なものに変わっていたので驚いて訊く。
「あれっ? 俺のスーツケースは?
僕は事情を説明し、「でも・・・ちゃんとグレードアップしてお返ししますよ」と笑って僕は言った。彼も苦笑いしていた。

中の荷物を出して早速仕事をしようと思った。
「あれっ? おかしいな・・・開かない」
「えっ?」
「・・・・・・」
「・・・・・・」

ケント・デリカットの野郎!!! 彼は僕の荷物を新しいスーツケースに入れ替えた際にクルクルとダイヤルを回しやがったのだ。


結局は・・・最初のスーツケースはド・ゴール空港で破壊され・・・新しいスーツケースもまた男数人で寄ってたかって破壊される運命となったのである。

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かいつぶり

Author:かいつぶり
職業 マスコミ

趣味 読書、楽器、小説を書く、料理、音楽

好きな食べ物・・・スイーツと酸味の少ないコーヒー、美味しいフランス料理と美味しいワイン。それさえあれば至福の時

好きな音楽 70年代のソウルミュージック。80年代前半の西海岸サウンド。あとジャズや、山下達郎周辺

好きな作家 ドストエフスキー、カポーティ、アーヴィング、ヴォネガット 

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