それでも生きていく為に・・・

音楽、料理、小説、時々、創価学会

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

はじめに。



画面左にある”最近の記事”にない過去記事の一部を以下にまとめました。過去記事はコメントできません。

アムウェイと創価学会① アムウェイと創価学会② アムウェイと創価学会③ アムウェイと創価学会④ アムウェイと創価学会⑤ アムウェイと創価学会 (最後)

創価学会の芸能人(有名人)① 創価学会の芸能人(有名人)② キリスト教と創価学会、そして祈り。  悪を滅する 人材育成  悩める学会員 信仰の実証とは何か

題目は叶う! (体験談①)  題目は叶う! (体験談②) 題目は叶う! (体験談③)

祈りと、結果の関係  福子の信心  選挙の功徳 ①  選挙の功徳 ②

恋愛と信仰① 恋愛と信仰②  仏壇と入信記念日  勤行・唱題の基本 不況の中の信心 あれは魔だったのか? 果たして 仕事三人前、信心一人前

30歳の時 体験談①  30歳の時 体験談②  30歳の時 体験談③

まずは環境を変える。 題目について 創価大学卒と、本部職員 仏壇に向かう心 一通の手紙 
スポンサーサイト

如是我聞(にょぜがもん)の大事さ


 最近、たまたまある有名な学会系のブログを読むことがありました。そこには、ある学会員がブログ主(当然そちらも学会員)だけに読めるコメント(要するに今の悩みの相談と信心指導を求めている訳だけれど)を書いた様で、それについての返答をブログ主が複数の記事に渡って公開しているのです。
多分だけれど、個人的に返信できる術がなかった為、コメントした当人が読める様に、また質問内容をぼかしながらその他の閲覧している内部の方々にも役立ててもらおうと書いている様です。
しかし、その内容が全部自身の経験や体験だけで、自分も過去にこういう悩みを抱え~こう考え~こう捉え~こう取り組んでこう打開してきたよ~、よってこういう種類の問題に対しては自分はこういう結論を持っていますみたいな感じです。その一連の中に先生の指導、御書や法華経の引用が殆んど無いのです。

原理原則として、ネットであれ現実の組織であれ、誰かを激励する、信心指導する際には、必ず如是我聞でなければなりません。如是我聞とは、「このようにわたしはお釈迦様のおっしゃるのを聞いた」という仏教用語です。仏教のあらゆる教典(お経)は如是我聞です。僕らの立場にたって言えば、法華経と御書になります。また、法華経と御書に基づいて指導している先生(三代会長)の指導です。

どんなことでも「こうした方がいいよ。(してみようよ) 何故なら、御書にこう書いてあるよ」とか「こう祈るべきだよ。(こう祈っていこう) 何故なら御書にはこう書いてあるよ」とか「~という先生の指導にもあるから、こうするべきだよ(こうしていこうよ)」が必要なのです。例えば、聖教新聞に載る池田先生の随筆や本部幹部会のスピーチや様々な指導もそうです。一つ一つの事柄ごとにその根拠となる御書が毎回引用されておりますし、あるいは「戸田先生は~」と根拠となる師匠・戸田先生の言葉や行動を提示されます。先生もきちんと如是我聞という法理法則を守っているのです。

自分の体験や活動を前例に出して、それによって培った個人的価値観のみで他人に信心指導をする人がいます。そして自分の価値観・経験・体験だけで信心(信仰)を語った場合に、主に相手側の方がその後、我見の信心に陥ってしまう可能性が大きいのです。
以前、地元の壮年の方が、(折伏戦の時にとにかく折伏の結果を出したい場合)『10時間唱題を3日間やれば折伏が決まるよ』と言っておりました。実際にその方が体験されたのかもしれませんし、その方の世代ではもしかしたら有名な説なのかもしれません。しかしそんな指導を先生はされたことがありませんし、御書にも法華経にも一言も書いておりません。根拠のない事なので僕は信じませんでしたし、その通り実践もしませんでした。当たり前です。

何分、僕自身も青年部の活動家時代の前半は「如是我聞」の原則をあまり知りませんでした。それを知ってから、どんな些細なことでも、相手に経験や体験を話した上でその根拠となる御書や先生の指導を引用する様にしていました。当然、このブログも我見で酷いものでしたし、更新を辞めたのもそんな理由です。

 さて、誤解のない様に言っておくと、前出の某ブログ主さんは素晴らしい信心をされている方だと思います。沢山の体験をされている様です。冒頭、僕が問題視した記事でも間違ったことは言ってないのです。仏法的にも世法的にも常識的にも外れたことは言ってません。そう、問題ないのかもしれませんが、大事なのは、それを読んだ誰かが間違った方向へ行く可能性が孕んでいるのです。

「先生の指導」
「御書の御文」
「法華経」
…このいずれかの引用も無い指導や激励は、ネットでも現実の組織や会合でも、あくまでアドバイスの一つ程度に受け止めておくべきだと思います。

本当は何の為に?



 
 久しぶりの更新だけれど、本当は安保関連法案について書こうと思った。しかし、記事にするつもりで書き溜めてあったものがあったので、それを今回は記事にします。

 内部の知り合いの婦人部・白百合長のAさんが去年の後半から発心して今も頑張っている。
地区に越してきた未活動家の年下の部員Bさん(女性)の面倒も積極的にみて、去年の任用試験の受験の決意もしてもらい、合格責任者として勉強会に一緒に参加。 ”Bさんが合格する様に、人材に育つ様に”と祈り、結果、合格して大歓喜していた。素晴らしい。Bさんは悩みが色々あり、教学試験や徐々に参加し始めた会合を通して信心で解決しようと僅かながら前進、発心した様だった。

さて、激励、家庭訪問、そして信心指導は、”最終的に本人がお題目をあげれる様に、仏壇の前に座れる様に持っていくべきである”といわれる。先生のことを語っても、自らの体験を語っても、ただただ悩みを聞いてあげるだけでも、会合に参加してもらおうと通っても、それらを縁や契機として、相手自身が”よし、お題目に挑戦しよう”とか”きちんと朝晩の勤行をしよう”とか、”今よりもっと沢山お題目をあげよう”と決意して、実際に自ら仏壇の前に座る様にもっていかないとあまり意味がないのだ。

前出のAさんと部員Bさんの件でいえば、任用試験合格後はそれぞれが忙しくなり、あまり接点がなくなってしまった様だった。2人はつい最近久しぶりに会い、Bさんに状況を聞くと、あまり勤行も出来ていないということだった。それを聞いてAは「なんかちょっと悲しかった」と僕に言っていた。
多分だけれど、Aは一生懸命に激励し、一緒に勉強し、Bさんが合格して喜び、Bさん自身も活動を通して変わり元気になっていったのでもう大丈夫だと思ったが、時間が経ち”今はあまり勤行していない”という答えに”あそこまでやったのに、なんだったのだろう”という想いがあったのだろう。そしてため息をついてこう続けた。 

「結局、自分の自己満足だったのかな?」
と。

Aが、Bさんを受験させて合格させる責務を組織から与えられたことを達成できたという喜びによる自己満足もあっただろうが、その自己満足は実は間違ってはいない、正しい自己満足なのだ。満足して喜んだのだからOKだし、喜ぶ為にやっているのだからOKだ。Bさんだって勉強・合格して喜んだのだから『喜とは自他共に喜ぶ事なり』ともある。しかし、僕がAに「なんだかんだと本人が仏壇に座る様に持っていかなくてはいけなかったんじゃない?」という話に対して「そう、(反省して)今度から時間を作って一緒にお題目をあげることにしたの」と言っていた。

部員さんとの関わりや激励は、活動や組織や先生に近づけることも重要だけれど、結局のところは相手をご本尊により近づける為にあるのだ、ということを基本においていかないといけない。青年部を卒業して2年経つけど、当時を反省して書いておこう。

目標を掲げることの意味


 今の時期は、地区でも男子部でも女子部でも今年の目標を細かく決めていると思う。皆で自由に意見を言い合い、討議し、納得のいく気持ちよく戦える目標なら良いが、闘いが込み入ってきたり、本格化すると、組織側から“いついつまで、これだけやりましょう”という目標がおりてくる。
特に○戦になったりすると大変で、その目標に対して実際どうだったのか、しょっちゅう細かい報告があり、幹部になると愚痴と文句の一つでも出てしまうかもしれない。

3・16まで、5・3まで、11・18まで・・・・・・一年間も細分化され、各日付までの目標を掲げるときもある。
学会組織が何故、様々な闘いにおいて常に細かい期間で、細かい内容で、細かい目標を掲げるのか、疑問に思っている活動家も多いのではないだろうか。その根拠になっている一つに仏教の『化城宝処の譬え』がある。

『宝処を志して遠路を旅しながら、途中で疲れ果てて旅を断念しようとする人々に対し、導師が神通力で一つの城をつくり、これが目的地であるといって人々を励まします。そして、城で休息し、そこが目的地であると思っている人々に対し、導師はこの城は目的地ではなく、一時の休息のための化城であり、真実の目的地である宝処は近いと励まして、ついに長途の旅を成功させます。』(以上引用)

長く険しく果てしない旅。目的地がなかなか見えない中で人々から「まだ到着しないんですか?」とか「疲れましたぁ~」とか「お腹すきましたぁ~」とか言う声があがる。そこで導師は少し先に幻の城を出現させ「あそこが目的地だ。着いたら休憩しよう。温泉もあるし、美味しい食事もあるぞ!」と。それを聞いて人々は喜び、元気なり頑張って歩く。城で鋭気を養うと幻の城は消え再び旅が始まる。これを繰り返すのだ。

活動で「今年中に一人ご本尊流布しましょう」という目標をたてても、誰もすぐに対話に動かないだろう。だから「今月は5人の友人と遊びましょう」とか、「3・16までに会合に最低一人誘いましょう」とか、そういう目標を掲げる。ダイエットだって、夏まで10kg痩せようと目標をたてても成功しないだろう。10Kg痩せる為にまず今月中にマイナス2Kgを目指して間食を無くすとか。そういう目標設定をしないと成功しない。

信心においては、凡夫の我らが信心を絶えず続けていくためには、遠い先の目標ではなく、近い期日に目標を掲げそれを実行していく積み重ねが必要なのだ。会合で「皆さん、お互い一生のうちに宿命転換できればいいですね。それを目指してまあなんとか頑張りましょう」と言い合ったところで誰がそこで決意、行動できるのだろうか。「今日より決意新たに○○までに残り僅かですが、○○を達成していきましょう」とやるから心と身体が広布へ向かうのだ。


 創立80周年を迎えた後、学会は2030年(20年後)を目指して動き始めた。しかしそれを先生に報告すると、先生は「20年後ではあまりに遠すぎる。ダメだ」と却下され、総本部完成(2013・11・18)を目指した闘いに急遽変更された。

闘いや期日や目標やある種のノルマに追われて疲れている学会員は多いかと思うが、この難しい信心を続けていく為に、そして先生が我々に功徳を積んでこの信心で幸せになってもらいたい為に、それらは全て理にかなったこととして、根拠があり理由のあるものなのである。


(化城宝処の譬えでは、化城は、真実の教え(一仏乗)に至るまでの仮りの教えとか、方便とか、現世利益とかいう意味合いもあります。様々な活動や一つ一つの闘いは、この信心で功徳を積んだり、幸せになるための方便でもあります。病気が治った、就職できた、経済革命した、とかいった現世利益も、体験を積んで信心を続ける力を得たり、一生成仏という、あるいは絶対的幸福境涯の確立の為という観点では所詮は化城なのかもしれません。)

役職は恐いんです。

 本部長の癖に活動を一ヶ月お休みしてました、と前回書いていたので、今回の内容は説得力ないかもしれません。すみません。

 だいぶ前のこと(男子部時代)だけれど、僕を中心とするある日の部長会の時、一人の部長のA君が開始時間になっても来ないので連絡したら「すみません。忘れてました。今、友達と会っています」という返事がきた。しょうがなく彼抜きで部長会を行った。

丁度節目の時期で、その部長会は新しい闘いの打ち出しがあるとても大事な会合だった。A君が来ないとA君の部のメンバーに内容が伝わらない。だから、後で僕の方からA君に都合の良い日を聞いて、後日、一対一で部長会の内容を伝えた。

A君の件は事例として書いただけで、彼を責めている訳ではない。A君が自分からすぐに個別に改めて部長会を開いて欲しいと僕に打診していれば問題ないし、部長会がどうしても出られないのなら代役をたてるべきだった。そうすれば良かっただけの話で、会合に絶対で出なければいけないとか、友人と会うな、とかいうことではない。しかし、A君は当初“あっ、忘れちゃった。まあ、しょうがないか。別にいいや”という感じだった。自分の部の広布の流れを、部長の立場で、意図的に止めてしまっていたのだ。

先生は役職というものについて「君達が思っている何万倍、何億倍、恐いんだよ。だから、そう簡単に役職を受けてはいけないんだよ。創価学会でこれまで役職をまっとうした人は誰一人いないんだよ」と仰る。
恐いというのは、要するに罰(ばち)であり、積んでしまう業である。広布の大事な使命を持った役職やその責務を逆に軽んじたり、ないがしろにしたり、いい加減にやってしまうというのはとても恐いということである。それは信心そのものや戸田先生が仰った「戸田の命よりも大事な創価学会」をバカにすることと同じなのだ。どんな役職問わずでもである。全国幹部でもブロック幹部でも新聞配達でも会館の警備や清掃でも未来部の担当者でも全部同様である。


 昔、ある役職の話しがあり、悩んでいたので先輩数人に相談・指導を受けた。殆んどが「受けるべき」だった。何故なら「役職は断ってはいけない」と一般的に教えられていたからだ。当然、間違いではない。でも、(記憶では)当時、すでにあまりに多くの役職を兼務していて物理的に厳しい状況だったし、その役職を受けたとしてもきちんと遂行できないのではと危惧していた。
一人だけ「○○君(僕)がその役職を受けてもあんまりきちんとできないだろうな、とか、いい加減になってしまうかもしれないな、と思っているんなら断った方がいいよ。しっかり決意できるんなら受けてもいいんじゃない」と言った。一人だけ意見が違うな、何故だろう?と思ったけれど、今になってみればその理由が分かる。中途半端な気持ちで受けても後々、組織側にも迷惑をかけるし、いい加減にやれば自分が損をするよ、ということである。全部自分に罰として返ってくるよ、ということだ。更に、その罰(ばち)をその時は難や魔と勘違いすることもあるかもしれない。
役職を受けて活動していても、一念の微妙な差で実は自分を不幸にしているだけだったり、罰(ばち)までいかなくても祈って闘った割には功徳が出づらくなってしまうのだ。

先生は、特に責任の重い本部職員に対しては「功徳も大きいけど、罰も大きいよ」とも仰る。牧口先生は「罰なくして大利益があるわけがない。子を叱る力のない父が、子に幸福を与えられない」とご本尊について仰っている。
だからといってあまり役職に対してネガティブになる必要はないし、青年部の皆様は絶対断らないで受けていただきたい。

過度な罰論は必要ないと思うけど、役職についてのこういった側面については知っていても損はないと思う。

Top|Next »

HOME

かいつぶり

Author:かいつぶり
職業 マスコミ

趣味 読書、楽器、小説を書く、料理、音楽

好きな食べ物・・・スイーツと酸味の少ないコーヒー、美味しいフランス料理と美味しいワイン。それさえあれば至福の時

好きな音楽 70年代のソウルミュージック。80年代前半の西海岸サウンド。あとジャズや、山下達郎周辺

好きな作家 ドストエフスキー、カポーティ、アーヴィング、ヴォネガット 

この人とブロともになる

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。